無我 ~関係性の中で~
「無我」は
仏教にとって基本的な考え方です。
これを現代人に対してどのように示していくかが仏教者として重要な役目だろうと思います。
「無我」というと、「無我夢中」という言葉がすぐ浮かんでくるかもしれません。
我を忘れて何かに一心に取り組んでいる状態のことですが、誰しもそのような経験をしたことがあると思います。
とはいえ、「無我夢中」は、本来の「無我」のほんの一側面しか表していません。
「無我」とは「非我」ともいいますが、「変わらずにそのままの状態を保つものは無い」ということを表します。
すなわち、あらゆる存在が永続することはない、ということです。
仏教では、自分という存在が永遠ではないこと、つまり無我であることを示すために「五蘊仮和合(ごうんけわごう)」を説きます。
色(しき)
受(じゅ)
想(そう)
行(ぎょう)
識(しき)
という5つの要素が仮に集まって1つの存在が成り立っているとし、さらに、それぞれの要素もずっとそのままではなく常に変化すると説きます。
さらにこれを拡大解釈すると
「あらゆるものは繋がっている、関係しあっている」というような捉え方にもなってきます。
自分自身の存在は、両親という存在から生まれ育ち、社会においては友人や先生、同僚や仕事仲間との関係の中で自分自身の性質や、役割が規定されていきます。
自分はこうなりたいと思うのは、憧れる他者の存在があるからですし、人々が仕事に取り組んでいるということは、それが社会の人々に認められているということです。
つまり、全ては他者や社会との関係の中にあるということになります。
物理的なレベルでいうと、お米などの作物はただそれだけでは育たず、太陽光や水、さらには人の手による手入れが必要です。
被害をもたらす台風もそれだけで勝手に発生するのではなく、地球全体に及ぶ非常に複雑な相互作用によって引き起こされるものです。
そのように考えてみれば、我々自身や、身の回りのあらゆる事柄は、それだけであるのではないことがわかります。
必ず他者の存在があってこそであるといえます。
これが真実の「無我」の考え方であるといえます。
諸行無常であり、一切皆苦であるこの世界をより良く生きて行く上で、このような物事の捉え方は、大切ではないかと思います。
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