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世界は足元に広がっている

 
 人間関係で苦しんでいるとき。
 収入が少なくて悩んでいるとき。
 仕事がうまくいかなくなって辞めたくなったとき。
 
 偉人、成功者、富裕層の人の言葉だけに、耳を傾けてしまうことはないだ    ろうか。

わたしは
「自分はこうゆう風に思う。」
といい続けていこうとおもっている。

    ただ、そのときに大切にしたいことがある。
 自分にとって大事な人は、すでに周りにいる、ということだ。

 たとえば、日常の家庭生活や、勤務する会社、コミュニティーに、
   自分のことを見守ってくれる人、自分の味方で見守っていてくれる人は案      外、一人はいたりする。

「そんな人、一人もいな~い」
 と、言いたくなる気持ちはわかる。
 確かに、敵やライバル、嫌いな人はいるかもしれない。

 それでも、意外と自分のすぐ傍にいるはずなのだ。
 自分にとって大切な人は。

「そんな人はいない」と言うならば、自分に正直ではないかもしれない。
 なぜ、そのようなことが言えるのかというと、かつての私がそうだったか   らだ。

 私は変なところで、「自分が、自分が」というプライドを持っていた。
そもそも「自分が、自分が」と思っている自分など、どこにも存在しない 。     
 人は、人とのつながりのなかで生きている。
 いろんなものや人に支えられて生きているのだ。

 ひとりで悩んでいたり、我が強く素直じゃなかったりすると、視野はだんだん狭くなっていく。

 そうなると自分にとって大切な人が傍にいても、気づかなくなる。
 私がこのような考えに至ったことには理由がある。
 ガンを患ったとき、私は5人の方に手紙を出した。
 友人、中学校、大学時代の恩師、お世話になったバイト先の店主。
 すべて私にとって大切な人たちばかり。
 
 手紙のなかには、
「私はいま、この病院にいる。もうだめだ、先は長くない」
 のようなことを書いたと思う。

 しばらくして、実際に会いに行き、素直に心の内をあかしたのです。
 人工肛門をつけて障がい者になったこと。
 これからどのようにして生きていけばよいのかわからないこと。
「俺はもう、ダメかもしれない」
 弱気になっている私に対し、友人、恩師、知人は昔話を交え、あたたかく激励してくれた。

 正直なところ、頻繁に連絡を取ったり、会ったりしているわけではない。
みずから電話で近況をきいたりすることもめったにないし、
長電話もしない。

 なかには、何十年ぶりに会ったという人もいる。それでも私が訪ねていくと、当時のように私を迎え入れてくれたのだ。
 
 このときは本当に嬉しかったことを、いまでも覚えている。

 弱気になっている私に、友人は「しょうがねぇな」と言った。
「バカだね!」
 いつもと何ひとつ変わらない口ぶりだったが、そのことが逆にありがたかった。
奇をてらう言い方でなかったのがこころにしみた。

 一方、私が学生時代にアルバイトをしていた旅館のオーナーは、
「あぁ、sは、よくやってくれたよね」
 などと言いながら、当時の私の働きぶりを労ってくれた。
「そういえば、休みになると働かせてもらったっけな。夏休みや冬休みは、泊りがけで毎日働いたりして……」

 そんな他愛もない話をしながら、このとき私は「自分の存在を認めてもらえた」と感じた。
 と、そのときだったと思う。

「もう自分は終わりなんじゃないか」
 そんなふうに感じていた気持ちが溶け出して、絶望感がだんだんと和らいでいくような気がしたのだ。
 そして不思議なことに、生きるエネルギーのようなものが、ふつふつと湧いてきた。
 まるで目の前に、スッと一筋の光が差し込んできたようだったともいえる。

 それまで絶望の淵にいた私は、
「よし、生き抜いてやろう」
生ききろう、と
 そう固く誓ったのだ。

 偉人や成功者の本を読んだり話を聞いたりすることで、ひとときの満足にひたることもあると思う。
 だが私の場合、自分にとって大切な人とFace to Faceで触れ合いから、生きる活力を見いだせた。

 まずは自分の周囲を見まわしてみてほしい。
 あなたにとって大切な人が、きっとすぐ傍で静かに見守ってくれている。

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