飲めない民の歩き方
もうこんなことを言うこと自体が時代遅れなのかもしれない。
けど、これまで自分にどうしようもなくまとわりついてきたこのテーマをどうにかしたかったし、どうにかなってきた感もあるので、ここで書いてみたい。
僕はお酒が飲めない。いや、正確には少しだけ飲めるくらいだ。
飲めない民のアルコールライフ
新卒で入社した今の会社には営業職で採用され、大手の顧客を任されることになった。
社内もお客さんもおじさんが多いこの業界では、社会人は飲みニケーションが基本。営業はお客さんと飲みに行って、仲良くなって情報や仕事を取る。
そんなことが当たり前の世界だったし、僕自身もそうなのだと疑わなかった。
「新人!お前東北出身だから飲めるな?めっちゃ飲めそうな顔だな!」
幾度となく聞いた、東北→水キレイ→日本酒→酒強い、の残念論法だ。
しかもどういうわけか僕の顔面はアルコールに強いテイストを持っているようだった。
都に出て早々に故郷と親を恨んで生きることになるとは、残酷だ。
実際にはそんなことはなく、学生の時からどうも酒は弱いなと感じていたので、いよいよ何とかしないといけないと、僕は仕事帰りにビールを買っては毎晩飲むというトレーニングを始めた。
ふた口くらい飲んでは、気付けば朝を迎えるという毎日を何週間か続けて、アホらしくなって辞めた。
だって知っていたから。
高校の化学の授業で、先生がアルコールの分解能力は人によって決まっていて強くなることはない。と教えてくれていたから。
飲めるようになった(飲んでもすぐには気持ち悪くならなくなる、顔が赤くなるなどの変化が見られにくくなった)というのは、身体が慣れてしまっただけでダメージは変わらないということも。
「修行が足りないんだよ!飲まないから飲めないんだよ!」
聞き飽きるほど言われ続けて、その度に言い返そうとするけど、酔ってる人は無敵だから聞いてくれなくて、自分ばかりが損をした気分になる。ややこしいのは、事実少しは飲めるからこのような指摘が入りやすいことだ。
でもいよいよ、自分では飲めない体質なのだということを認めざるを得ない状況になってしまった。
そしてその事実を認めた時には、周囲にはまあ酒弱いけど、多少は飲めて、飲む気はあるやつという認識を持たれてしまっていた。
そこからは全く美味しいと感じることもなく、言われるまま飲み、すぐに頭痛と眠気がやって来てトイレに逃げる。でもお客さん相手だとそうもいかずただただ耐える。
こんな何の得もないアルコールライフが長いこと、そう十数年も続くことになる。
飲める民への憧れと怒り
男なのに。営業なのに。親父は飲むのに。東北の生まれなのに(?!)
飲めないことはくやしかった。
そして飲める民への憧れもあったので、心中は複雑だった。
無茶苦茶に酔っ払って朝に路肩で目覚めたかったし、朝気付いたら隣に知らない女の子が寝ているシチュエーションを一度くらい経験してみたかったし、「あー二日酔いきっつ」って言ってみたかった。
きっとあれは飲めない僕たちに飲める民がマウンティングする為に、大してきつくもないのに言っているのだと思っていた。
飲めない民はわかるかもしれないけど、我々は「二日酔いが飲みはじめて2時間後に来る」のだ。少なくとも僕の飲めない(酔いやすい)とはそうゆうことだ。
飲み始めたばかりのやつらがビールを美味しいって言ってるのだってウソをついていると思っていた。ただ苦いだけの液体がそんなにうまいわけがない。
大人の階段を早くに登りたい奴らがうまいうまいとウソをついて、我慢して飲んでいるのだと思っていた。なんだよ料理に合うって。合うのは水だけだ。ウソをつくな。
飲んではベロベロになっちゃう彼女に「他の男との飲み会が心配」という気持ちと「おれが飲めないのに飲めやがって」という訳の分からないダブルの嫉妬で苦しんだりしていた。
彼女が飲み会に行くのが嫌だったのは、そんな思いからだったと今は思う。
ケース:お酒はうんこです(謝罪)
きっとほとんど誰もが、うんこは好きじゃないし食べたくないはず。
美味しいとも思わないし、何なら合わなくて(当たり前)お腹を壊したり、体調不良を招くかもしれない。
でも何かの歴史のイタズラで、徳川家光が生類憐みの令を講じたように、うんこ憐みの令がどこか過去の時代で偉い人から発令されて、めっちゃ大事にされて、なぜかありがたく食べ物としても頂こうなんて話になって、食事の前には「とりあえずうんこ!」と頼んで、いや頼むことが当たり前、頼まないと空気読めないみたいなこと言われて、うんこのトンガリ同士を突き合わせて「カンパーイ」ということが当たり前の世界だったとしてみてほしい。
これとほとんど同じだ。
そもそもなんでこんなに多種多様な飲み物があるのに、とりあえずまずビールなのか?なぜ選択肢がうんこ一択なのか?そもそもなぜアルコールが入ってないとダメなのか?
こちらど素面だ。でもバカでも何でもできるし、酔ったやつより面白いぜ。頭も回るよ素面だから。
飲んでなくても、残念がらないでくれよ。心配しないで、楽しんでるよ。
ていうかさっきまでのあなたはどこいったんだよ?違う人じゃん。さっきのあなたと話がしたかったのに。
飲めない民の危機回避
あまりにしんどい時期があって、それを生き延びるためにお酒を捨てることがものすごく上手くなってしまった。
おススメは日本酒だ。色が透明で量が少なめ。これがいい。
こいつを頼んでおいて、汁物のお椀にこっそりぶち込むか、おしぼりに染み込ませればいい。
染み込ませ方は、お酒を口に含んで、会話に合わせて笑顔を作りながらおしぼりを口に添える。吹き出すのを抑えるような感覚だ。これで上品に笑っているように見える。
あまりやるとおしぼりがぐちゃぐちゃになるから、そっと足下に捨てる。そしたらトイレに立って新しいおしぼりをもらってくればいい。
間違えてカシスソーダなんで頼むとおしぼりが怪しげな紫色を放ってすぐバレるから注意すること。
昔、ほとんど新入社員の時に、尊敬する上司に六本木のお洒落な鉄板焼きに連れて行ってもらった。
いい人なのだがどうしても飲ませてくる人で、命の危険を感じた僕は、上司がトイレに行っている隙にワインクーラーにボトルの中身をぶちまけたことがある。
他の記憶は無いけれど、隣の席の裕福そうなご夫婦が白眼を向いて見ていたのははっきりと記憶している。
本当に申し訳ないことをしたと思うけど、危なかったんだこちらは。
飲めないヒーロー現る
大学時代の先輩で、社会人になってから仲良くさせてもらっている人がいる。その人は体質的に酒が一滴も飲めない。でも底抜けに明るくて、ユーモアがあって、温かくて、まさにヒーローのような人だ。
彼は飲まないことを断言していて、飲まなくとも、酒豪の人や酔うと面倒臭くなってしまう人ともうまくやっている。
そんなヒーローの登場で、じゃあ自分も見習って!とならないのが僕だ。
「自分は全然飲めない人とはまた違うつらさがあるよな〜」
そんなことを思って斜に構えていた。
ヒーローと同じ飲み会に参加した僕は、いつものように無理して飲んで、酔いを覚ますためにトイレで顔を洗って、顔を上げたときに鏡に映った死ぬほどつまらなそうな顔を見て、どうしようも無い気持ちになっていた。
生きやすくなった世界で
お酒が飲めないことに対してうるさい飲める民は確かにいる。
でも最近はどうか。
パワハラやアルハラなんて言葉は日常的に飛び交い、そもそも若者は飲まなくなったと言われて久しい。
自分の周りでもそういった変化は感じているし、実際に無理して飲むシチュエーションはほとんど無くなった。飲めない民もずいぶんと生きやすくなったはずなのだ。
でも自分では生きやすいと感じていない。なぜだ?
仕事で遅れた飲み会に参加する前に入ったトイレで、鏡に映った死ぬほどつまらなそうな顔を見て、はたと気付いてしまった。
「自分でつまらない選択肢を選んでいた」のではないか?
飲めても飲めなくてもつまらない選択をしていたのでは?
自分自身でこうであるべきというステレオタイプな考えを選び、ここまで自分を生きにくくしてきただけではないか。
飲めなくてダサいと思われたくない、飲めなくてつまらないやつと思われたくない、飲めなくて仕事ができないと思われたくない、飲めなくて面白く無いと思われたくない。
本当は頭に付く「飲めなくて」は関係なくて、その後に続くダサいとか、つまらないとか、仕事ができない、面白く無いと、強烈に思われたくなかったのだ。
そんな自意識のせいだった。
僕はそれを飲めないことのせいにしていた。自分を守るために。
だから現れたヒーローの存在を受け入れることができなかったのだ。
飲めない民としてのこれから
そのことに何となく気付いてから、お酒はほとんど飲んでいないし、飲めないんですとはっきり言っている。だいぶ生きやすくもなった気がする。
三十過ぎにして、ようやくお酒とともに手放した何かがあったのだと思う。きっとそれは凝り固まったステレオタイプな思考とプライドと自意識だろう。
もちろんしんどかったのはそのせいだけではなくて、一部の飲める民には今だに声を荒げたくなる時もあるけど、もうそんな場からはとっとと逃げてしまう。
だって大丈夫、ヒーローはいるのだから。
だからこれからは、大好きなカフェラテでも飲みながら、あなたとゆっくり話がしたいのだ。
あ、全然、お酒飲んで頂いて大丈夫ですので。
読んでくださって、ありがとうございました。
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