幻のナムパクノー ~サワンナケート・ラオス
葉っぱ――「パクノー」ひと掴みを、ミキサーの中へ。…と、足りないのか、もう少し。
ミキサーというのは、デパ地下や地下街なんかで、フレッシュジュース用に苺とかバナナとか入れてガガガと回す、ジューススタンドに数台あるアレである。…ってここはまさに「ジューススタンド」であり、どこの、というと、ラオス。
ラオス南部に位置するサバナケット(サワンナケート)である。首都ビエンチャンに次ぐ、ラオス第二の都市とも称されるが、メコンに沿う、落ち着いた静かな町だ。
青汁ジュース「ナム・パクノー」を、頼んでいる。
ラオスで「ナム」とは水だから、「パクノー」がその商品たる材料名だろう。パッと見た感じ、ミントに似た爽やかな色だが、茎がちょっとクセっ毛で長く、葉の形はフキに似ている。後で調べるところによると、せり科に属し、和名は「ツボクサ」というらしい。…名前からすると何となく、土手とかその辺に生えていそうな名前だなぁ、という印象だが、その通り道端その辺にあるモンらしく、血行にお肌に良い・コラーゲンを促す等々、女性が求めるイイ効能があるというから、ジュースというのは、摂取する形態としては二重丸かもしれない。果たしてここ・ラオスでも、ソレ(肌云々)を求めて飲まれているのか。まぁ、ハーブも様々ある中で、敢えてソレを選んでいるということは、なんらかの効能が経験から伝えられているんだろうが。
ともあれ出来上がりの清々しい色から、グリーンジュースと呼ぼうとしたが。――飲んだら「青汁ジュース」の方が相応しい。ってわたしはそもそも巷の青汁を飲んだことが無いのだが、かつての超有名なCMほどに「不味い!」と叫ぼうほどではないものの、眉間にシワが寄らずにはいられず、自然と連想されたのである。
まぁそのことはあとにまわし、とにかくそのミント色の「パクノー」。嵩としては、ミキサーの三分の一程度だろうが、とはいえ、茎がクルンと巻いた葉っぱなもんだからスカスカであり、実際それほどの摂取量はないだろう。それを掴みとる時に、指に一本二本そのツルが引っ掛かるかどうかでも、ミキサーに入る量・即ち出来上がりの濃さも違ってくるんじゃないかとも思うんだけれど、
「そうねぇ、やっぱり『ナムパクノー』ね。」
自分の作るジュースの中でどれが好き?と訊いたらメーの答えもソレだから、きっと悪いようにはしないはずだ。
ちなみに「メー」は名前ではなく、娘たちが「メー、メー」呼ぶから私もそう呼んでしまうのであり、つまりはラオスで「お母さん」の意味なのだが、日本人の私にはそれが名前のようにも聞こえるから心の中ではメーメー呼んでいる。実際呼んじゃったらば、んなでかい子供はいないワヨ、とムッとするだろう。……いや、困った顔はあっても、「ムッ」はないかもな。
「優しく穏やか」という文句をそのまんま具現化したような人だ。目が細く垂れているから、たとえボーっとしているだけでもそう見えるのもあるが、微笑み顔などされてしまうとこちらの方がホゥっと抜けてくる。私としては、お母さん、は失礼だしお姉さん…ともちょっと違う。そうだなぁ、思い出すのは中学のとき同級生にいた、いつ話しかけても笑顔のかぶちゃん。ノート見せてと言っても嫌な顔一つなく、人のうわさ話も自分からしないし悪口も決して言わない。いつその傍に行っても、安心できる存在。
四十代半ば。卵型の輪郭の中のその口は小さく、小柄だからもっと若く見えるが、落ち着きと、子供をたしなめるその口調からすれば、そんなもんかな、と思う。肩までの髪を一つに括り、通りに面したいつもの場所でジュース屋を開いている。
話を戻して、ミキサーに入った「パクノー」。その上から、小鍋にあるシロップをお玉ですくい、氷に通しながら注ぐ。…というのは、取っ手付きのザルに氷を入れて、それをミキサーの上に引っかけた上から、シロップを垂らすのである。おぉ、冷やすためか。…って、氷を伝う、たったわずかな間で果たして効果あるだろうか?と思うも、数ミリの誤差の設計ミスにより、部品が合わんじゃねーか、と工事業者に平謝りの事態だって起こるんだから、何事も侮ってはいけない。
きび砂糖だろうか、ほんのり黄色がかったシロップの水位は、ミキサーの中のパクノーと同じ。…ってほぼ、シロップを飲むようなもんだと、一瞬のけぞる。
ちなみにくだくだと書いているが、手早い。かつ、角をきちっと折った鶴のように、テキパキ丁寧だ。会議室用にあるような長テーブル上でこなしている、自分の作業を見下ろす目は、黒板の字をノートに書き留める少女の横顔――真面目なモクモク顔である。
氷は中へ入れるのかと思えば入れず、ミキサーをカチッとON。ヴィーンとお馴染の音で、中身は青のりへ、それからよりもっと細かい粒子へ、そしてベットリしたグリーングリーンへとぐるぐる目を回し、メーのお許しによってそれは解放される。
出来た。
コップはガラス製のジョッキグラスで、生中、という感じか。その中へ、さっきザルに入れシロップを通した氷を全部、ほぼいっぱいに入れると、ミキサーの蓋をパコンと開いてその上から注ぐ。ナミナミ、てっぺんまでだ。あ、あと一センチが入りきらない…と思うも、その残った分を取っておいて、あとで忘れた頃に「これね」とにっこり足してくれるからそう悲しまずともいい。ストローを一本指し、仕上がりのシルエットとなる。
メーはそれを持って、さあ、と後ろへ目くばせした。イスがあるのだ。約一メートル四方の、タイル張りのテーブルも。
ジュース屋の後方は建物だが、そこから伸びる大きなトタン屋根が、店ぎりぎりまで伸びている。テーブルはもちろんすっぽり入って日に焼けることは無く、炎天下真っ昼間、そのぜーたくスポットにお客はいま私一人、そこに。
「召し上がれ」
コップを置くとメーは再び振り返り、カラにしたミキサーを、長テーブル足元にあるタライの水でジョジョっとゆすぐのを繰り返し、振出しに戻す。
――グリーン。
シロップへの戸惑いはまぁ、この清らかな色で丸め包んでおくことにして、アー、あつかったのだ。とにかく早く、この火照りをどうにかしよう…。
何度も飲んでいる、お馴染みの味だ。が、キューッと一気にではなく、最初のひとくちふたくちはいつも、ゆっくり吸い上げて舌の上に少々留める。……ウン。これ。受け取った荷物の差出人を確認するように、フンフン、と読んでゆく感じ。
正直、第一声に「アーうまい!」とはこない。
ジュースとして甘いことは甘い、と言い聞かせるも、葉っぱ・パクノーのクセが、その茎のうねりのようにまず絡んできて、葉っぱであることの生命力を主張する。ひと言でいえば、青臭い。過ぎれば苦さ辛さに転じる危うさを孕んでいる――が、その一線を越えることはない。やはりシロップが効いているのだ。「甘さ」は、葉っぱが自己一辺倒に陥る歯止めでもあるのだと、ここで「あの量」に納得がゆく。
序章を踏んで自身を慣らして、それからだ。水を得た魚のように、生き返ったぁ感がやってくるのは。
ほぅ、とありつけた潤いに肩が下がり、ジュースとはいえどちゃんとした葉物を摂取した満足も頭で少々得ながら、最後にはスッキリしている。タメになるもん飲んだなぁと、まさにあの「青汁」を克服し、ものにしたかのような充実感がある。まぁ、要するに「慣れ」だ。
もちろん、しょっぱなの時は生意気な反応しかなかった。
一瞬で「ヴ」とか「ゲ」とか、これを敢えて選択した自分に対する非難と後悔しかなく、注がれたグラス一杯の苔色をカラにすることが出来るのか、それは果たして「私」がするのか、と気が遠くなった。
不味い――はしかし、旨い。キライキライも好きのうち・「甘い」のを頼りになんとか飲んでいるうち、気付いてくる「快」がある。かりに「もう一杯」でも、特に悪くないかも…とさえ。
対して何の抵抗などあるはずもない、ただ無心にスッと飲み干せるものといえば、フルーツジュース――それもシュワシュワの炭酸系なんて、その気泡にザパっとダイビングしたいぐらいだ。だが、快感に釣られてとっとと飲みきってしまうのが悲しい。シュワシュワといかにも思わせぶりだったのに早々に冷たく突き放され、ポツンと取り残された気持ちになる。
「分り易いジュース」が、こちらを癒すには持続力に欠ける一方、青汁ジュースは「読ませる」感じ。そして、部長じゃないけれども、「ふむ」と納得して頷く、という感じ。
過程、というものがある。そう、冷たいけれどもその勢いに流されず、段を踏んで冷静に味を取り込もうとしている自分の落ち着きを、急激に減少しない水位を前に気づくのだ。
アァ、熱が引く。何様かしらんが納得し頷きながら、旨いもんなのだ、と、噛み砕くように時間をかけて味わう。
ココでしか飲まないジュース、というのがあっていいのかもしれないと思う。
――旅をしていると、相性のいい街、というのがある。
腰を下ろせばそこから、蜘蛛の巣から伸びる糸のように展開が生まれるところ――不思議とこちらに都合いいことが、タイミングよく起こる出会いの町。
この癖、奥深さは、それをそのまま内包したようでもある。これを飲んでこそココの滞在という、もはやなくてはならないものになっていた。
(最終訪問時2016年)
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