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カラバフのケーキ屋さん② ~「ナゴルノ・カラバフ共和国


カラバフのケーキ屋さん①~定番「フワフワ四角ケーキ」


現在に至るまで


 アルメニア共和国・通称アルメニアは、ロシアのモスクワからは南へ約200キロ、東西に走るコーカサス山脈を越えた、カスピ海と黒海に挟まれた土地――一般に「南コーカサス」と呼ばれる地域に在る。東にはアゼルバイジャン、北はグルジアと隣接しており、この二国同様かつてはソビエト連邦共和国を構成する地であった。南はイラン、そして西はトルコと国境を接している。
 そのアルメニアの東部に位置しているのが、自称国家・「ナゴルノ・カラバフ共和国」。
 まずことわっておくのは、これより記す彼の地における私の旅話は、前述のように2008年、そして2013年の記録である。2024年(コレを書いているの現在)における状況については後述するとして、まずは「当時」のこの地について述べてゆく。

「ナゴルノ」はロシア語由来で「高地」、そして「カラバフ」(トルコ語由来)もまた「暗い、黒い」と、樹木に覆われている様子を意味するという。確かにこの地の南部と中部には最高2725メートルの山脈――カラバフ山脈が連なり、その北部には最高3724メートルのムロブダグ山脈が聳える山岳地だ。カラバフの人口約十五万人のうち、約五万五千人が住まうとされる「首都」ステパナケルトもまた、標高約千メートルのところにある。(2015年時点。Wikipediaより)。
 だが「自称」と付したように、ここは国際法のもとに「正式な手続き」を経なかったとして、国際社会からは「国家」と承認されていない。このエリアに入るにはこの時アルメニアからの陸路ルートしかなく、外国人はビザを取得する必要があったが、そのビザ発給もアルメニアの首都イェレバンにのみ存在する大使館で取得していた。(のち、旅行者からの情報によると、入国後に取得できたりなどと手段は緩和されたらしい)
 実際、流通している通貨はアルメニアドラムであり、アルメニア人人口が90%を占める以上、耳に入る言葉、そして町の標識や看板はアルメニア語と、ソ連時代の公用語・ロシア語。ビザを取得するという行為から、区切られたエリアあることは多少は思うものの、正直アルメニアの一部という印象を抱かざるを得ないのだが、この地を「国」として認めているのはその親元のようなアルメニア・一国のみなのだ――と私は思い込んでいたが、拍子抜けすることに実はアルメニアさえも「承認」していなかったことをのちに知った。
 明らかにアルメニアに帰属するように見える――とはいえ、現地の人々にとっては当然のことながら、ここはれっきと首都を備える「自治共和国」。彼らは通常この地をまず「カラバフ」(「ナゴルノ」は省略)と紹介し、訊いてはじめて「アルメニアの、」と付け加えていた。逆であった覚えはない。

 そしてこの地のことについて何よりも知られることとといえば、アルメニアとアゼルバイジャン共和国――東に隣接し、同じく旧ソ連を構成していた国との間で、その帰属をめぐって争われた地である、ということである。

 1920年代つまりソ連時代より、ここはアルメニアではなく、アゼルバイジャンの「自治州」としてその領内に置かれていた。アルメニア、アゼルバイジャンそれぞれが異民族を内包していたように、この自治州内にはアルメニア人(アルメニアに住まう主要民族であり、インド=ヨーロッパ語族)とアゼルバイジャン人(=アゼリー人。コーカサス周辺にまたがって居住するトゥルク系民族)、そしてロシア人などが混在、共存する多民族の土地であり、その割合はアルメニア人が八割から九割と多く、アゼルバイジャン人が一割から二割、そしてその他と続いた。
 だが、1980年代より、アゼルバイジャンとアルメニアにおいて民族意識が高揚し、相手民族への暴力と殺害事件が繰り返されるようになる。両民族の対立が泥沼化するなか、カラバフにおいては住民の多数派であるアルメニア人によって、この地をアルメニア領内への帰属を求める声が高まってゆく。アルメニア最高会議とカラバフにある地方会議は、アゼルバイジャンからの離脱を強引に決定し、1991年にソ連が崩壊すると、カラバフは「共和国」として一方的に独立を宣言することとなる。カラバフを巡って両国・アルメニア対アゼルバイジャンの戦争の口火が切られ、カラバフでは多くの村や町が破壊され、また多大な死傷者が出た。

 戦況を有利に導いたのはアルメニアであり、カラバフにおける殆どのアゼルバイジャン系住民は難民としてアゼルバイジャンに逃れ、難民生活を余儀なくされることとなった。
 そして1994年にロシアの仲介によって「停戦」となって以降、この状態が続いていた。「停戦」であり、「終戦」ではない。アゼルバイジャンはアルメニアによるカラバフの「占拠」を認めておらず、両国の断交状態は続いている。また繰り返すが国際機関もまたこの地を「国」として承認することはなく、アルメニアがアゼルバイジャン領を「占領」している、という見解が為された。

 アゼルバイジャンとの境界周辺では時折、小競り合いが起こり死傷者が出るなど、この地が争いから解決を迎える展望も見えないなか、2017年にはそれまでの「ナゴルノ・カラバフ共和国」から、別名だった「アルツァフ共和国」が正式名称であると定めた(「アルツァフ」とは古代、この地を治めていたアルメニア人による国家の名称である)が、ボーダー付近は未だ戦闘がやまず、隣国とは憎悪の感情が残った「停戦状態」の不安定な状況は相変わらず、解決されないままであった。

 私が訪れた当時もずっと、廃墟となった「かつての村」の跡が放置されたままの景色が、そここに点在していた。

 いつまで、こうなのだろう。

 いつか大爆発しないとも限らない、危なっかしいものを抱えながらももはや後戻りはしないと開き直り、たとえ「未承認国家」であれ一つの国家としての道をこのままゆく――のかと思っていた。

 だが2020年、アゼルバイジャンとの間に再び紛争が勃発。これによってカラバフは三分の一の土地を失い(即ちアゼルバイジャンが領土を「奪還」し)、多くのアルメニア人が難民となってアルメニアへ逃れる事態が起きた。アルメニアとを結ぶ唯一のルート「ラチン回廊」を、両国の仲裁国・ロシアの平和維持軍が管理することになった。

 両国による平和交渉なる睨み合いが続けられながらも、2022年には現地・カラバフで死者が多数出るほどの大きな衝突が起こり、そして2023年9月、アゼルバイジャンによる、「自国」からのアルメニア軍の武装解除を名目に戦闘が始まった。一日で首都ステパナケルトは陥落。ロシアの平和維持軍の仲介により、戦闘の終結に合意した。

 そして――カラバフ政府はその月(9月)の28日、2024年1月1日までに、共和国としての存続を停止すると発表。

 アゼルバイジャンは同地における主権の回復を宣言し、元政府の政治家を逮捕。アルメニア系住民には国籍の取得と居住を認めたが、ほとんどのアルメニア人が、迫害への恐れからアルメニアへと避難したとされる。

参考(「公益財団法人日本国際問題研究所 戦略コメント(2023-10)ナゴルノ・カラバフ問題〜戦略的見地から 廣瀬陽子(慶應義塾大学総合政策学部教授/日本国際問題研究所客員研究員  https://www.jiia.or.jp/strategic_comment/2023-10.html)

 

 つまりアルツァフ共和国――カラバフは2024年現在、解体された。

 靄の晴れない、不安定なものを抱えている――とは分かっていても、彼の地においてはそれを忘れてしまうときさえある、傍からは穏やかに見える彼らの日常が繰られていた。土地に腰を据えた、生活の場があった。だからこそ、袖に引っかかって取れない釣り針のように、その靄は余計に立ってもいたのだが、それが終焉を迎え忽然と「消えた」ことに、かの地を離れた「あの時」で時間が止まり、次回訪れるときはソコから始まるような感覚でいた能天気な私としては呆然としてしまう。アルツァフという「新名称」に舌が馴染む余裕などもなかった。

 アルメニアとアゼルバイジャン。カラバフの地を巡って、どう解決されるべきだったのか。双方が納得できる位置づけとは。世界はどうかかわるべきだったのか。あまりに根が深い難題に、私などはただ立ちすくむだけで、安易に出てくるのは「分からない」という呟きでしかない。

 彼らと接してていても、この件に関してどこに地雷があるのか分からず、傷つけてしまうことを恐れて会話に出すことを避けていた。……いや違う。自分が傷付きたくなかったのだ。この件に触れることで、自分が彼らに拒絶されることを恐れたのである。

 そして、彼らはずっとここにいて、訪れたならばきっとこちらを迎えてくれる。…そんな気でいたのだ。ずっと。

 だが2020年に事態は動き出し、そしていまの「解体」を迎える。

 結局は、――ソレが結末?

 生活の場が忽然と消えてしまう。難民となり、土地を追われる。それがまた繰り返されることに躊躇が無い。

 悲しみと憎悪しか生まない、武力でもって一方をねじ伏せて「問題が解決した」と宣言されることに、人間の世界というものの限界を感じてしまう。これでいいのか、これしかないのかヒトって――と幻滅してしまう。それはそっくりそのまま、「分からない」しか言えず、見て見ぬふりを通してきた自分そのものでもあり、平和主義を謳って非難してみても、無責任な、外野の勝手な言いたい放題でしかないのだ。

 かの地を去って十年以上が経った――とはいえど、その時の出会いや光景はいまも鮮明に覚えている。友人として接していた人たちの安否が気がかりであり、無事でいてほしいと切に願う。

 かつての場所は、二度と戻らない。「彼らがいる」場所、その行き場が消えたことの現実に、ただ率直に悲しい。再会もおそらく、不可能に近いのかもしれない。
 だが心からは消えない。
 つい最近まで存在した「カラバフ」での、あの場面、出来事。それを書き留めておきたいと思う。自分の目を通した主観でもって(つまり思い込みも含めて)、当時のままに。

 ここでカラバフの呼称についてであるが、2017年正式名称を「アルツァフ共和国」と定められたとはいえど、それは私が去った後のことであり、訪問当時は「ナゴルノ・カラバフ共和国」が一般である。かつ現地の人は、「カラバフ」と略して?呼称しており、よって私もそれが舌に馴染みきっているため、この場でも以下当時のまま、ソレで通すことにすることを断っておく。

 

懐かしの訪問

 

 話をかの地、かの時に戻そう。2013年の訪問である。前回より五年振り、二度目だった。
 カラバフの首都「ステパナケルト」へは、アルメニアの首都・イェレバンのバスターミナルからミニバンで約七時間揺られてたどり着く。
 山には木がモサモサと生えているモンだ、というのが世界で共通しているわけではないと気付いたのは、「自然紀行」的な番組も特には見ない私であるから、やはり旅のおかげである。
イェレバンからワゴンに乗り、市街を出て暫くは、時折牛追いの横を通り過ぎながら「あ、あれアララトなんじゃないの?」――アルメニアのシンボルなれど、現在トルコ領に聳える山・「アララト」をバックに、ドォっと遥かに続く畑と、草原が入れ替わり立ち代わる、真っ平らな世界の広がりに見とれていた。が、一時間、二時間…と過ぎるにつれて、車窓の遠いところにあった山々は次第に近くなり、車はその起伏の波の只中を走るようになっていた。
 木はただ一本や二本、取り残されたように立ち尽くしているだけの、ほぼ土色に覆われた砂山(ハゲ山)、或いは何者をも拒んで寄せ付けない崖のような岩山の景色が続く。やがて、試練を乗り越えたかのように、いつしかその肌が草を纏うようになり、青空のもと、苔色の滑らかな波線が描かれてゆく。
 一面にうねる、濃淡豊かな緑色の絨毯――そこに白い雲が、牛のまだら模様みたいにぽっかりと影を落としている。何の成り行きか、時折背の高い木が、ポツン、とバツのわるそうに突っ立っていたりする。
 山にも、いろんな表情があるものだ。
 圧倒的な緑色の中では、ポッと息を吹いたような野花の、黄色や白がよく目立つ。群生するのがワッと現れたならば、その可憐さにドキィっと見惚れ、即座に「逃すまい」――慌てて手がバックの奥のカメラをまさぐる。プロ気取りで何度もシャッターを押し続けるものの、思う通りに撮れるかは当然別問題であり、画像を確認してゆけば「もういい加減にしよう」とその能力の無さに興ざめしてきてカメラを仕舞おう気にもなるのだが、そのとたんに、ネッシーでも眠ってそうな、静寂を湛える大きな湖がヌッと現れたりすると、瞬時に「撮りたい」欲が再燃して再びカメラをいじり始めることになる。その繰り返しだ。この景色とカメラとの苦闘も、――そうそう、と懐かしい。

 バスターミナルを出たらそこがもう「メインロード」であり、そこから路地に入って五分も歩けば辿り着く、以前と同じ宿に荷を下ろしてひと息ついたならば――もう夕暮れとはいえ、やはり行ってみようか。「市場」へ。「彼女ら」のもとへ――あのケーキ屋さんへ。
「メインロード」に戻り、まっすぐ歩く。ここを歩くのは旅行者であっても分かり易い。北東から南西へ一本通っている、この結構しっかりしたアスファストの両脇には、銀行があり役所があり外務省があり、両替屋、靴・服屋や薬屋、雑貨屋など等の商店が並ぶし、立派なロータリーのその傍には、品揃えのよさそうなスーパーマーケットも立っている。これを西へとなぞってゆき路地を左に折れて…と、バスターミナルからも宿からも徒歩十五分で辿り着ける場所に、野菜や果物、衣類等々の生活雑貨を揃えた大きな市場が、町に一か所ある。

 だがいまはもう夕方だ。店は閉まり、閑散としているかもしれない――との想像通りに、やっぱり。
 体育館程度の敷地に入れば、記憶に在る賑わいなどはかけらもない。えらくガランとしたなかで野菜屋らしき人がひとり、ダンボール箱にキュウリをしまいながら、それでも仕事帰りに訪れたような人に、これなんかどうよ、とお勧めしている。
 ……ホントにココ? ありがちな展開としては、町に新しい市場が出来ており、ソッチへ移転している――とか。ここは「旧」市場であって廃れていく運命の場所であり…――と想像は進むのだが、記憶では、生鮮食品類は段ボールに入ったものを積んだり並べたりの露店的な出店であったから、店じまいをすればそらまぁ空き地になるわなぁ。時間帯のせいだと信じたいが、あんまりな閑散具合に不安になってくる。
 空いた空間を囲むようにある、壁と屋根を設えた簡易的な小屋には、ワンピースやTシャツをヒラヒラと吊り下げ、ヒールの高い靴を段々に並べた衣料雑貨の類の店が入っており、そっちはまだかろうじて開いているようだが、ぽっかりした空き地の前には寂れて映る。
 工房を構えるからして、あのケーキ屋さんも当然、「小屋」のうちのひとつを占めていた。
 私がここに辿りついたきっかけといえば、単純に「市場」という場所が好きだったからだ。が、そのうちのケーキ屋にじっくりと腰を据えよう気になったのは、気まぐれというか偶然、とでもいうか…。
 市場内をほっつき歩いていて、鼻腔をムンムンと突く甘い香りのはし切れ――が、前をかすってゆき、それに興味を奪われたのである。
  こんにちは…とばかりに、奥をひょいと覗き込んだらばすぐ、目に入ったのは匂いそのまんまに「作っている場面」。数台並んだオーブンの前に、ボール容器を抱えた女性達がいる。ボールの中には、モコモコ泡立った生地らしきものが。
 幾つかの顔が、こちらを凝視していた。――とはいえ不審がるような様子など無く、「やあやあ、ようこそ」あらアナタ旅行者ね?と迎えてくれた彼女たちだった。

  さて、五年ぶりの工房は果たしてそのままだろうか。陽が傾こうという中、記憶を辿り奥へと歩いてゆくと――あぁ、多分あそこだ。ちゃんと、ある。
 今頃はもう、片付け時間だったろうか。…僅かに、まだ匂いがあるような気がする…。
 …いる……?
 こちらを覚えているだろうか――果たして。

(訪問時2008年、2013年)

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