nostalgic future


未来から現在へメンションし続ける私たちは、人間の生存や身体を基軸に人間ではない"なにか"を このまま「サステナビリティ」や「ポストヒューマン」とかいう言葉として片付けてしまうのだろうか。最近幾度となく訪れる上海ファッションウィーク、そして上海で出逢うデジタルネイティブ世代やアジアの動向を見ていると、どうもそんな感覚がしっくり腑に落ちていなかった。(少し前に、イリス・ヴァン・ヘルペンが「アニミズム」を取り入れたことへの斬新さを語っていたトークショーを聞いて、それも何故今更という感じだった。)


未来から現在へのアラートは「サステナブル」とともに急に鳴り始めているが、まだ素材やコンセプトとして表層的に用いられていることが多々。パリの展示会で「またかよ〜、でもこれ持続性あるの?トレンドだって思ってない〜?」と心の声が出てしまいそうになるまでその単語を聞き続けると、逆にいかに根の深い問題なのか頭を抱えてしまうほどだ。ポジティブに言えば、SSENSEのサステナブルについて様々なデザイナーが考えているという記事にもなるのだろうけれど、結局 服を手に取った消費者の意識さえも変えてしまうマインドハックまでの一式が肝心なように思う。


未来を想像するビジョンとして他にも某メゾンは、今後のショーで人間のモデルではなくバーチャルモデルを起用すると噂されているが、実際の所 長細い液晶画面にCGモデルが映った映像作品をショーに見立てたYang Li 20S/S に何も心を揺さぶるものを感じられなかった。ファッションフォトの小さな潮流として台頭してきた3DCG表現を振り返ってみると、Frederik HeymanBalenciaga loopSelfridge の19SS 水着の広告、今年ローンチしたDazed China エディトリアルなど 服を見るためというより無意味に近いような"遊び"的感覚の側面と相性が良く、ショーという緊張感のある場においては効力が薄いのかもしれない。(今見ると可笑しく感じる90年代のCG映画を見たときの感覚に近く、それは現代でいうYoutubeやInstagram的な感覚かもしれない)そう思うと、SIRLOIN 18AW のAR ショーは彼らの皮肉的なギャグセンスとマッチして先見していたように思う。

そして少し前まで、現在と未来を繋ぐ架け橋として「ジェンダーレス」の言葉も耳にタコができる程 謳われてきたが、「Ugly beauty」でも書いたように ただ単に性別どうこう云々議論以上 に歴史的文脈を踏まえた「Uglyとされていたものへの肯定」がエポックとして、最終的には人間を超越した「ポストヒューマン」のストーリーまで繋がってきたのだと思う。エディスリマン、J.W.Anderson、HBA、VETEMENTS、ミケーレのGUCCIなど これまでにメンズウェア界にバグが起きた瞬間に「Uglyとされていたものへの肯定」が共通して起きていたのは言うまでもないだろう。


プロセスへの付加価値

未来に対するビジョンは、昨年後半にかけて ファッションフォトの観点から見ていくと、テクノロジーが普及していく現実世界と未来の狭間を行き来しているような潮流が増えてきていた。その潮流のエレメンツとして、ストリートキャスティングや奇形ポージング、ドキュメンタリー写真などが流行ったように感じる。

そこから(他にも小さな潮流はあれども) Johnny Duffort や Feng Li 、Xiopeng Yuanなど「偶然性」「違和感」「雑コラ」を装った写真が見受けられるようになる。それは大きく捉えれば、2010年代のファッション的キーワードになった「リミックス」「完璧な成果物よりもプロセスへの着眼」にも最終的に通ずるものだろう。Virgil Abloh が唱えたプロセス論、NIKE が次々と実験的にリリースしていくスニーカー、トレンドのソースとなる"元祖"とのコラボレーション、中心人物の周辺の相関図を知った上でのラッパーやDJ含む音楽業界とハイブランドのコラボレーションなどなど。。。1着の服をただ買う以上の付加価値を「プロセス」が担保するようになった。そしてその「プロセス」への共感や感動が、ファッションの民主化を推し進める。ファンタジーに溢れた完璧な世界よりも、ある程度 今現在の私たちが身近に感じられるようなオープン/フラットな世界となった。(と言えども、服の強度が追いつかないままコンセプトが面白いっしょ!という一発屋のようなスタンスでファッションに食ってかかる人は生き残らない境界線はちゃんと張ってある)

ちなみに、少し脱線するが 毎回フォーマットを決めずに自由に"ZINE"という言葉で紙雑誌であることをもてあそぶ「Buffalo Zine」は、ついに最新号にて赤字、付箋修正指示を残したままのまるで製本前のようなデザインでリリース。「ごめんね〜締め切りに間に合わなくて途中だけどリリースしちゃいます〜!その代わりちゃんとバケーションが取れたよ〜」というようなゆるいテンションつき。


アジアから見る未来へのビジョン

ファッションの民主化は、2010年代に注目を集めたファッションデザイナーの面々が物語るように  それぞれのバックグラウンドや言語、メゾンが担うヘリテージ含めた"時間や記憶の操作"をもとにSNSで誇張拡散する"革命"の連鎖によりおし進められたように思う。(そんな感じで最近は個人的に 口頭伝承 に興味がある)

欧米・西洋でのこのあたりの話は散々語り尽くされてきたので、本題の未来へのビジョンへの解を現在進行形で変わり続ける上海、そしてアジアの今後のイメージから探っていく。(実は、この話の一部を「上海ファッションウィーク振り返る会」の第三部で編集・もてスリムさんとお話しした)


国内外に拡散された「中国らしい」イメージ

今年次々とコラボレーション ー H&M のカプセルコレクション、AdidasやMAC ー を果たしたANGEL CHEN。LABELHOOD 設立時から「中国ブランド」として看板を背負いながら、ワールドワイドに「中国」のイメージを塗り替えてきた。国内でもその功績が讃えられ、LABELHOODのトリを飾りつづける「カリスマ的デザイナー」としてのポジションを獲得したが、なんと20S/S シーズンではLABELHOOD でのショー発表を控えた。

さらに衝撃だったのが、ANGEL CHENだけではなく、今まで「LABELHOOD」の目玉となっていた中堅たちもショー発表はしなかったこと。(と言っても、ANGEL CHEN、SHUSHU/TONG、yirantianはミラノファッションウィークに参加していた)そしてANGEL CHENのショールームに行くと、今までの赤・青・黄色などのざっくりとオリエンタルを感じさせるアイコンカラーの存在は縮小し、その代わりにパステルカラーが目立つ。(後に、大阪の民博で今のアフリカのイメージは西洋から描かれた輪郭ということを知り、色々個人的に納得したものの)


ANGEL CHENの他にもビジュアル表現として国内外から「中国らしい」と注目を集めたのが若手フォトグラファー・Leslie Zhang。

(現地の友人からは 「作品は素晴らしいけど性格が悪い」という苦笑いコメントしか聞かないが笑)A MAGAZINE curated by SIMONE ROCHA の表紙にも写されているように独特の赤色を特徴に様々な媒体に登場している。(おそらくパートナーがDAZED CHINAの編集?)

ビジュアル表現以外にも、ANEGL CHENやLeslieより活動歴が長いプロデューサー・DJのHowie Lee は、音楽を通して真面目に中国のアイデンティティを貫き通している先駆者の一人である。


今ほど私が上海で遊び、人と交流していない3年前程、中国に対するイメージは上記の3組をはじめとする、古典的な要素を感じる像だった。今考えれば、以下のことが同時多発的に発生していた背景から、まだリソースとして有り余る中国4000年の歴史をマッシュアップしてたことは当然だったのだろう。

・前述したように西洋・欧米ともに過去のものを"時間や記憶の操作"により現代へ昇華するトレンドが盛んになったこと 

・表現者として自身のオリジナリティを見つけ出す初期プロセスに必ず現れる「自分自身と向き合うこと」のルーツに中国4000年の歴史があること

・ファッショントレンドとして、VETEMENTSやスタイリスト・Lottaに始まるジョージア、ロシアなど、ファッション本拠地・パリではない何処かへの興味(それが今はアフリカに。でも最終的にアフリカも中国も繋がってくる)

その傍らで、ファッションショー後に遊びにいくクラブ「ALL」は 、当時 現地のファッション業界において「あれはサイバー感溢れる徹底したアンダーグラウンドだよね笑 」と言われる若者内だけで共有されるコミュニティだった。

もちろん客観的に見れば「中国らしい」を掲げたブランドは少数で、ショールームで出会う多種多様なブランドを見ると、いかにトウコレで謳われる「東京らしい」というキーワードが内からの勝手なプレッシャーになっているか逆説的に感じてくる時もある。広大な土地と膨大な人口から納得するその多種多様さの中で、外から見た分かりやすい「中国らしさ」がきっとメジャーシーンを走り続けるのだろう。まだローカルなカルチャーシーンが根を張ることはないだろう。

そう高を括っていたが、見事に20S/Sシーズンでその予想は外れ、冒頭で書いた「ポストヒューマン」的な未来へのビジョンさえも拡張するような  新たな 点と点が目の前で同時多発的 現れてきたように感じた。(あくまでも私目線だけれども)

現実世界と等身大の感覚

LABELHOOD 1日目からその感覚を味わせてくれたのが、去年正式にブランドを立ち上げた「WINDOWSEN」。

2019年に正式にブランドとしてスタートしたものの、既に在学中に19S/S ニューヨークファッションウィークのVFILES枠でショーを行い、Lady GagaやRita oraなど海外セレブリティからも注目を集める若手の一人だ。ネット閲覧規制が厳しい中国では、LGBTQやファッション雑誌でのヌードフォト掲載もオープンではない。そんな社会的環境の中で、彼のコレクションはまるでドラァグクイーンの衣装と現代のストリートカルチャーをミックスしたような中国における新しいユニセックスの世界観を打ち出した。会場ではモデルインスタレーションとともに過去コレクションの服の展示を行い、その病的かつサイバーなインスタレーションは、近年中国の発展スピードをより加速させているデジタルネイティブ世代が集まる遊び場であり心身の拠り所 ― ネットを原体験とする世界観 ― の空気感とも重ね合わせられるように感じた。                                  ー「異様な循環スピードにどこまでクオリティの成長速度がついていけるのか」上海ファッションシーンの"いま"を考えるhttps://www.fashionsnap.com/article/2019-11-18/kurata-20ss-3/

彼のキャリアは 作風から漂うようにアントワープ卒だが、Fashionsnapに書いた通り 個人的に「ついにALL CLUB ぽいみたいな世界観がファッションに接続し始めてるのかも」と感じたインスタレーションだった。

まだ私がちゃんと踏み入れてないTAOBAOでは既にライブ的な速さでこういうブランドも出てきて、ALLキッズから知られていることも事実だったが、TOMO KOIZUMIの活躍や 世界のスポーティトレンドを汲んだ状況であればWINDOWSEN の方が圧倒的に共通言語が多い。

そして、そのビジュアル感覚の原点となったALL では 雑誌「アイデア」でも特集されていたacidgraphics の潮流(いくらネットの閲覧制限あると言えども)にも文脈回収できるフライヤーが並ぶ。

今はまだ このようなイメージにはアンダーグラウンドという言葉付いているが、「中国ファッショントレンドは、他国のようにサスティナブルではなく、もっとfutureに夢中になると思う」という中国人の友人の発言や 実際、北京のショッピングモール・SKP-S内の(特にGENTLE MONSTER ショップ)デザインやショップディスプレイの近未来感、中国のクローンビジネスの成長など現在散らばっているそれぞれのピースを貼り合わせると、彼ら等身大の世界観に繋がる日もそう遠くないように感じる。(実際、上海から広がるように中国本土で ALL ぽいクラブがいくつかローンチしている)

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「懐かしい」感覚

WINDOWSENとは打って変わって、ANGEL CHENのように古典的イメージを用いたのが、去年ブランドを立ち上げたばかりの「YUEQI QI」。ブランドやショー内容の簡単な説明は以下で。

2018年にセントラル・セント・マーチンズのニットウェア科を卒業後、パリでCHANELの刺繍デザイナーとして携わり、DIOR、BALENCIAGA、GIVENCHYのテキスタイルデザインを手掛けた。今回のショーでは、中国の四大民間逸話「梁山伯と祝英台」をテーマに、その彼女のキャリアの特徴を表すかのように手織りのガラスビーズネックレスや中国のフォークロアパターンをインスピレーションにしたテキスタイルデザインを発表。上海の八百屋に積まれているフルーツや伝統的な陶器などのインスタレーションにより、会場一体をノスタルジックな雰囲気へと誘う。            ー「異様な循環スピードにどこまでクオリティの成長速度がついていけるのか」上海ファッションシーンの"いま"を考えるhttps://www.fashionsnap.com/article/2019-11-18/kurata-20ss-3/

もし上海の人々にとって acidgraphics的な世界観が 新しくも じきに等身大の姿として映る頃が来るのであれば、きっと今の過剰な流入&消費スタイルにも終止符を打ち、そのモノの背景にあることへの興味とともにやっと「消化」していくようになると思う。(日本はこれを10年以上かけてやっているが、果たして彼らはこの情報過多の時代からスタートして同じプロセスとは言え、どのようなハイブリッドな形を描くのだろうか)「消化」には 例えば歴史を振り返るなり、国外からそういった知識をかき集めるなど様々な方法はあるだろうけれど、一貫してそういう方法の中で人が感じることは「ノスタルジック」だろう。

上海の街を歩いていても、日本で言われる程 街中にはサイバー感は漂っておらず、寧ろ年寄りたちが道で散髪したり雑で古い店内に切って貼ったように置いてあるwechatのQRコードなど「チル」な空気が漂い、その裏の世界=APP世界を使いこなす生活スタイルに私たちが想像するサイバー的イメージがある。街だけ時代に取り残された不思議な「虚無感」と「ノスタルジックさ」は、今後 時間を飛び超えるように「無人店舗」など未来の街並みにそのまま直結していくような気もする。(例えば オリンピック後の東京なんかきっとそんな虚無&ノスタルジックが漂うのだろう)

おそらく2010年代の"時間や記憶の操作"の延長線上に描く未来感こそ、私たちから掛け離れたフューチャーではなく、上記のような「ノスタルジック」とテクノロジーが普及した現在を知った上での「フューチャー」をかけ算したような「ノスタルジックフューチャー」の時代になるのではないだろうか。

そしてそのビジョンは、既にwrittenafterwardsPUGMENTが(違うアプローチとはいえ)描いていたように20S/Sシーズン腑に落ちた瞬間だった。





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