Ugly beauty

いまや何も違和感を感じない 男女合同でのランウェイショー、そしてそこに付き物である「両性具有」「中性的」「ユニセックス」というキーワードには、何も驚きを感じなくなった。
あれ程、女性が仕事にもスニーカーを履き始めた、男性でも女性でも着れるような服、そしてもはや性別自体を区切ることに対してもファッションだけではなく、社会的にも世界中の人々が(時に過剰に)共鳴しあった。

その共鳴が加速化したのは、2015年頃から。
ちょうど VETEMENTS のデビュー戦であり、GUCCI にミッケーレが初登場し、アメリカでは同性婚が合法になる等、2015年を節目としてその境界線について言及することを越え、近年ファッションでは「ポストヒューマン」に向かい始めているように思う。人間を超越したストーリーは、「人間そのもの」「(さらに)奇形」「テクノロジーの進化」「未来(過去をリファレンスした未来も含め」と密接に関わり始める。

つい先日ファッションフォトに関するトークイベントを開催するにあたり、近年ミクロ単位でも起きているファッションフォトトレンドとして「ネットミーム/雑コラ」「ローテク」「画像加工が誰でも容易に出来る時代(テクノロジーの進化)」のキーワードを設定し、その際にファッションからの切り口としては上記の「ポストヒューマン」や「身体の多様性」をキーワードにしていた。

90年〜00年代の i-D, DAZED&CONFUSED を見れば、おそらくその時代にとって「サブカル」であったゲームやビット表現、そしてコラムではネット後の未来について勝手に妄想するテキストも溢れていた。(そこには、人間が他者との会話や話題で忙しくなる、など的確なことも予想してあれば、SF的な妄想も広がり、マトリックスが生まれ、また一周回ってVETEMENTSの世界観に現れていることも理解できる)様々な妄想や期待、不安、そして写真表現においては合成や透かし、歪みが頻繁に見られる中で、個人的にその当時と現在の共通点としては「Ugly」の美意識を感じていた。

個人的には「Ugly」の美意識の歴史においてタブーだったものが肯定された一つのエポックにも感じられたのだ。つまり、近年用いられる言葉「多様性」というよりは、「美しいものこそ善、醜いものは悪」というステレオタイプが一度打ち破られたと言えるのではないかと。

そうして90年~00年代の i-D, DAZED&CONFUSEDのページをめくっていくと、ゲーム世界で生まれた奇形のモンスターについて4ページにわたるコラムや、FUTURE HUMAN、最新テクノロジーを身につけるツルツルの(わざとレタッチされまくった)モデルなど、単純に近未来=ロボットやテクノロジーというより、少し異質で奇妙なものとしてビジュアル表現されていた。

それでは、「Ugly」がポジティブな方向に覆される時代とは、どのようなものなのか?
「Ugly」の美意識の進化について、2018年に刊行された雑誌「Ladybeard」はまとめている。(とはいえ、用語が一部専門的だったため、全て訳せず、また追って友人に全文翻訳は頼むことにする)
この雑誌は、雑誌名の通り女性を主体としたジェンダー的視点を持ち、主要コンセプトとしては通常の女性誌では載っていない内容まで語ることを目的としている。
ちなみに表紙もやり切っている。

雑誌前半にて、「Ugly beauty」の歴史をコラム化、メインページではモデルではなく身体に傷が残る一般女性たちのエディトリアルやインタビューを掲載。

さて、そこで書かれていた「Ugly」の美意識は、ざっくりとした年代と内容だがこちら。

古代ギリシアの時代
・容姿や身体への「beauty VS ugly」の二項対立は存在
・ヒエラルキーとして男性の方が生物種として勝つというアリストテレスの『動物発生論』から女性は男性の変形と言われる

古代エジプトの時代
・分厚い唇、太い首、出っ張ってるお腹 が王子や王女の権力の象徴に

1000-1400
古代は対人間同士のヒエラルキー言語だったが、「transform」という考え方のもと変身譚への言語へ。
・魔女、錬金術、狼男など人間を主体とした存在への用語として、宗教的だけでなく時には「症候群」の一種として使われた
・人間を主体とした他の物へ使われたため、人間に対して危害を与える恐怖や怖がられる存在として見られる
・仏教圏では、「餓鬼」など死の世界で苦しむ存在について恐怖を巻物などで描いていた

1400-1600
植民地など国同士のカルチャーやイデオロギーがぶつかり合う時代においての自分とは異なる服装や色、シンボルなどを示す。
・ヨーロッパのクリスチャンは、インドの神様の造形をみて、世界滅亡の前兆を予感させる「ugly」「monstrous」と解釈する
・レオナルドダビンチが人間の理想の美を探究するため、「grotesque」シリーズのスケッチを始める
・風刺画が描かれ始めることによって、典型的なuglinessが示されるようになる — 例えば、歳をとっていること、女性、人種、低所得者層、肥満者など。

1700
ugliness と deformity(奇形、変形) が18世紀イギリスで近い距離の言葉として扱われるように。
・当時の辞典に関わったSamuel Johnsonによって「contrariety of beauty」「moral depravity」と定義される
・女性や人種についても引き続き用いられるワードとして、社会的にネガティブな印象を持ち続けている

・1753年代にWilliam Hogarth によって「The Analysis of Beauty」が発表される。曲線 — 変形した直線 について追求。「Fitness」「Variety」「Regularity」「Simplicity」「Intricacy」「Quantity」美とは目を楽しませるものであり、簡単には目で追うことのできない「複雑性(Intricacy)」の中に美があると考え、曲線に注目。

1800
エンターテイメントとして鑑賞される対象になる。
・1834-1860年に生きた「世界一醜い女性」として名を残すメキシコ出身のJulia Pastraha がヨーロッパに渡り、パフォーマンスを行う。フリークショーの先駆けとなる。
・1853年にKarl Rosenkranzによる「Aesthetics of Ugliness」が発表され、そこでただuglinessというのは、美の反対、ネガティブな存在だけではない要素で解釈していく。

1900-1940
戦争により、機械化と各々の国での表現や、社会的な定義付けの明確化が進む。
・機械化の進化により、整形手術の発達。
・ナチスドイツの時代に、The Exhibition of Degenerate Art, or Entartete Kunst (1937)に展示が行われる。

1950-1990
1960年を中心に「ugly」に変化が起き始める。
・これまで差別を受けていた側によるムーブメントが起き始める。
・社会的な偏見が変わることで、徐々にネガティブイメージから外れていき、肯定するアーティストなども登場

2000-
マスメディアにより偏見がポジティブな方向へ。
・Ugly Bettyなど美しくない女性を主人公にしたドラマが社会的な影響を及ぼす
・廃棄されていた訳あり食品、変形した果実などが肯定的な方向で消費される対象に。
・ということで、いつの時代でも鑑賞されている側というより鑑賞している側の変化によって意味の捉え方が変わる

ということで、ヒエラルキーが存在する世界を前提として「Ugly」の肯定と否定は繰り返されている。ある意味、ビッグシルエットも多重レイヤーなど形は、元をたどれば曲線の美学に通ずるものがあるかもしれないし、ストリートキャスティングは「Ugly」が市民権を得た象徴的な存在かもしれない。
ファッションでは新たな変化が起きる瞬間には、「パンク精神」がつきもの(文字通りのパンクではなく)なので、冒頭で挙げた90年~00年代の i-D, DAZED&CONFUSED での現象 ー マルジェラやHELMUT LANGなどの時代 と 現在話題・復活したブランドの 親和性は一周まわったことが容易に頷ける。

さて、ここでファッションの服に対しての「Ugly」さを語るのは、あまりにも周知の通りなのでやめておくが、個人的にはこの「Ugly」への肯定は、メイクアップアーティスト・Isamaya ffrenchの活躍からも加速の起因を見出せるように思える。(Ladybreard の記事でそれが完全に着地した)

Isamaya Ffrench は、メークアップ アーティストであり「Dazed Beauty」のクリエイティブディレクターに最近就任したばかり。彼女の前に人々が驚いてしまうようなメイクアップを手がけている(先駆者とも言える)のは、もちろんマルジェラ映画にも登場しているメイクアップアーティスト・Inge Grognard (アントワープシックスに欠かせない存在)であり、彼女ももちろん近年の「Ugly」が肯定に傾き始めた2015年頃からその美意識を加速させたブランド(であり90年代文脈を引き継ぐ) Hood by Air、 Demnaチームと手を組んでいる。
もちろんInge もマルジェラ映画で語るように普通のセレブリティや理想像への美意識へ反骨精神を持つ大事な存在であるが、Isamaya Ffrench が次世代として「Ugly」の美意識を加速させている部分は、90年~00年代の i-D, DAZED&CONFUSED で見受けられたテクノロジーの進化に対する「Ugly」の美意識であるように思う。

現にSSENSE のインタビューでも、彼女のコンセプトとして 肉体の変容、「トランスヒューマニズム」 を掲げている。つまり、ここに来て日本の近未来キャラクターではなく、空山基が受け入れらる時代感もわかる。

https://www.ssense.com/ja-jp/editorial/culture-ja/into-the-future-with-makeup-artist-isamaya-ffrench

先頃サイモン・ハック(Simon Huck)がニューヨークで開催した「A.Human」展のためにフレンチが制作した一連の歯型にも、実験的な直感が明白に表れている。参加者名簿にクリッシー・テイゲン(Chrissy Teigen)やキム・カーダシアン(Kim Kardashian)らが名を連ねた没入型エクスペリエンス「A.Human」は、未来のファッションと肉体の変容を検証した。私たちが知覚する「美」は、常に変化し続けるテクノロジー、そしてセレブの生活に対する飽くことなき好奇心と絡み合っている。メディアにおける女性像に疑問を提起したシンディ・シャーマン(Cindy Sherman)の『Untitled Film Stills』から、Louis Vuittonの2016年春夏キャンペーンの顔として起用された『ファイナル ファンタジー』の仮想ヒロイン「ライトニング」まで、現代の女性らしさと美しさを提示する新たなイメージには、それにふさわしい新たな視点が必要だ。フレンチは、領域の区別を浸食し、オンライン媒体と印刷媒体の相互作用を促しつつ、「美しい」と感じる多様な表現を創作する。イースト ロンドンのある日曜の午後、エドワード・パジントン(Edward Pagington)とイサマヤ・フレンチが、工業デザイン、マリリン・マンソン(Marilyn Manson)、ユーモアを忘れない大切さについて対話した。

彼女のデビュー当時は、今のような特殊メイクというよりは、子供が描いた落書きのようなメイクが特徴だった。

ええ、私の場合、本筋はダンスとパフォーマンスだったの。それがどういうわけか、セントラル セント マーチンズで工業デザインを勉強することになって…。でも、22歳までずっとダンスは続けてたし、携帯電話とか椅子とか、そういうもののデザインには興味がないとわかったわ。フェイス ペインティングは、学生の頃から、アルバイトでやってた。それから、テオ アダムス カンパニー(Theo Adams Company)っていうアーティスト集団にも参加するようになった。テオ アダムスは、Louis VuittonやTateもショーを依頼するパフォーマンス グループ。だから、テオ アダムスでの活動とすごく子供っぽいペインティング、そのふたつがなんとなく混ざり合って、その中間から撮影用のもっとプロフェッショナルな仕事へ発展していったわけ。


その当時は、ちょうどストリートキャスティングもショーの目玉の一つとなり、その「欠如した美」への肯定に風が吹き始めた時期。「未熟」であることへの新しさとノスタルジックさが混ざり合い、若いモデル、はたまた子供まで登場し Jamie, Harley, Coin Dodgson などフィルム写真が奇形な身体やストリートキャスティングのモデルたちに90年代との接点を持たせた。
Hood by Air でさえも Colin Dodgson とキャンペーンを撮影しているから意外だ。

その後、ストリートキャスティングが主流になった今、90年代から今私たちが生きている年代まで近づくのは昔に比べてスピードが速くなっている。Louis Vuittonの2016年春夏キャンペーンで登場した「ライトニング」から暫く時間をかけて、ストリートキャスティングを超え、人間ではない生物への関心、もしくは未来の人間像、ポストヒューマンを描くようになり、それはトレンドセッターであるブランドのコレクションを見れば明白だ。

Isayama Fffench は、その時代性に近づくにつれ、子供のような落書きスタイルから、CAMPER のキャンペーンを行ったあたりから、特殊メイクに注力を置き始める。

そして、いまやDazed Beauty ではモデルではなく、3Dの生物や合成したKate Moss など、未来の美に対しての提示を行い始めている。これはあまりにも私たちの日常とは関係ないようにも感じつつも、すでにDUST magazine の誌面では Frederick Heymanによる宗教絵画的構図の3D作品が写真のように掲載され、インフルエンサーは、年齢を重ねる人間が独占していた市場に いつまでも年齢、国すべてを匿名に出来る3Dインフルエンサーが侵入し始めている。(VETEMENTS のコレクションテーマであるダークウェブは、ここあたりの話題とは違うが近い。どちらかと言えば、GUCCI の18AW、Xander Zhouここ2シーズンあたりが近いかも。UNDERCOVERを主要に日本の裏原と親和性の近いKikoは、未来というよりも「曲線」への美意識的な考え方が近いかも。)

90年~00年代の i-D, DAZED&CONFUSED に謳われていたように、人間はテクノロジーの進化と普及した後に感じる違和感、そして機能性だけを受け止めるのではなく機能性がないユーモアに変えたがる思考は変わらないが、ビジュアル表現は文脈を踏みながら飛躍する。
それは90年代に描かれていたファンタジーとしての表現ではなく、携帯一つで加工が容易になった今、ファンタジーとドキュメンタリーの間を行き来しているように感じる。フィルム写真から、雑コラ的な表現に変わっているのもその一つを表しているビジュアルの一つかもしれない。(そして個人的にはその「欠如」への美意識は、ヘタウマ的ストロークにも繋がってきているように思えるのだが、またそれは別の回でちゃんとまとめる。し、SSENSEで出せるようにちゃんと内容詰める)

ちなみに2015年あたりで「Ugly beauty」を感じるものたち(かなり個人の視野なので広げればまだまだたくさんありそうだけど)

文末で記した雑コラ的な写真で気になる人

Johny Duffort 

Casper Wackerhausen-Sejersen


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