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その正体は、

この人のライブは何かが違う。

鳥肌、泣きそう、顔が熱い。この正体は何だ。

2022年2月13日、東京国際フォーラム。

人生で初めて観た宮本浩次氏のライブは、他とは何かが違った。

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私はライブに行くと、その感想を言葉にして書き残すようにしている。しかし、大抵の場合、それは内容の薄いものになる。「格好良かった」「最高」「1曲1曲に思い出が詰まっているから、それらを生で聴けて云々」など。陳腐な言葉しか出てこない。

しかし、彼のライブは違った。

もちろん、急に私の語彙が豊かになったわけでも、表現力が上がったわけでもない。

ただただ、終演後にメモを書く手が止まらなかったのだ。こんなことは初めてだった。

ライブ中は絶えず脳内に言葉が蠢いていた。頭の中には考えたことや感じたことがたくさんあるのに、目の前ではどんどん曲が進んでいくから、それを観ていたら頭の中の言葉がどんどん頭上に逃げていく。終始それらの言葉を手放さないようにするのに必死だった。

そしてライブが終わると、それを一気に吐き出すようにスマホのメモ帳に書き留めた。後から数えてみたら、1500字を超えていた。

きっとこのメモの中身こそが、「何かが違う」の正体なのだろう。

ということで、2月13日の「日本全国縦横無尽」東京公演、そして6月11日の「縦横無尽 完結編 on birthday」のメモから、「何かが違う」の正体を探っていこうと思う。

宮本浩次氏の魅力

最初に断っておくが、私はエレカシやミヤジをずっと追いかけてきたファンではない。ソロ活動を始めたミヤジの曲を聴き、3年前からファンになった20歳である。人生経験も貧しいペーペーだ。「若造がなんか言ってらぁ!」くらいに思って読んで頂ければ幸いです。

浮世離れした妖しさ

ミヤジが真っ暗な中舞台袖から出てきた時、「神様みたいだ、、」と直感で思った。そして、暗闇の中スポットライトの真っ直ぐな光を浴びて歌い始めた瞬間、その佇まいがあまりに神々しくて美しくて、泣きそうになってしまった。

「この世の者ではないような、浮世離れした感じがする」というのが、彼のライブを観て一番最初に感じたことだった。まるで妖怪のよう。妖怪と言っても、気味悪いものではなく、妖しい雰囲気。儚げで憂いを帯びた人だと感じた。

人間らしさ

その一方で、人間らしさを感じさせられる場面もあった。

「冬の花」で舞い降りてきた花びらの赤さが彼の血の色に重なって見えた時。涙を拭いながら花道を歩く背中を見ている時。汗でシャツが背中にはりついているのを目にした時。叫ぶような力強い歌声を聞いた時。

「ああ、この人生きてるんだ、、」と実感する瞬間だった。

そして、歌と歌の合間にふと垣間見えるお茶目なところも、とっても人間らしくて素敵だった。

2月の公演では、「あ、2番歌っちゃった、失礼しました」と歌詞を間違えたと思っておじぎ姿勢のまま小声で歌いながら思い出してみたら、結局合っていたり。笑

6月の完結編では、「輝いてるぜエビバデ!全然見えないけど!」と正直な感想を口にしていた。愛おしい。

色気

そして、生で彼の姿を見て確信したのは、ものすごく色気のある人だということ。

ただし、彼の色気は、外見に現れるような表面的なものではない。内面から滲み出る色気を纏っている人で、それが眼差しや佇まいに現れていたのが本当に素敵だった。

この色気の背景には何があるのだろう。そう考えた時に私が思い出したのが、脳科学者である中野信子さんの言葉だ。

色気の有り無しの境目のひとつは、調和しきらないものということ、といえるでしょうか。
https://am-our.com/special/512/14865/2/

色気がある人は調和しきらない人だ、と中野さんは言う。

これを彼に当てはめると、先程書いた「浮世離れした妖しさ」と「人間らしさ」という相反する2つが調和しきらずに併存していることこそが、色気に結びついているということになる。

なんて素敵なんでしょう、、稀有な存在である。

強さと優しさ

彼の歌を生で聴くと、言葉の一つ一つが深く確実に入り込んでくる。

きっと歌声の振れ幅の広さによるものなのだと思う。ささやくように柔らかくあったかく歌ったかと思えば、叫ぶように力強く歌ったり。

ここまで歌声に幅を持たせられるのは、彼が強くて優しい人だからなのでは、と私は勝手に考えている。

痛みを乗り越えてきた人は、強い。さらに、それでいて、人の痛みが分かるから、優しい。強い人は優しいのだ。だからこそ、柔らかくも、力強くも歌うことができるのかもしれない。

一挙手一投足

立ち姿、歩き姿、一挙手一投足の全てが魅力的だった。

そして、中でも特に素敵だったのが花道を歩く後ろ姿。ここまで書いてきた全ての魅力が滲み出ていた。

浮世離れしているのに人間らしくて、それ故の色気を纏いながら、強く優しい。

「冬の花」に"わたしという名の物語は最終章"という歌詞があるが、これは諦めでも落胆でも絶望でもなく、むしろ「もう最後なんだからとことんやってやるよ!」というパワーの表明だったのだと、あの背中を見て確信した。

その正体は、

2月13日、あの日感じた「何かが違う」の正体は、宮本浩次氏含む五人衆の魅力以外の何物でもない。

ミヤジはもちろん、楽器隊も文句なしの手練たちが揃っていた。特に、玉田豊夢氏のバスドラの重みや身のこなしは印象的だった。格好良すぎて笑ってしまうほどに。

唯一無二の魅力を持った五人衆が結集したからこその、「何かが違う」だったのだ。

本当に素敵な時間だった。これからも、ミヤジの最終章についていきます!

愛してるぜ 人生も、この場所も、君も!

お誕生日おめでとうございます!宮本浩次最高!!

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