あなたにふれる(日菜子と涼平)

「なぁ。なぁ。なぁってば」
「なによ」
「今日こそ家に入れてよ」
「い・や!いい加減にしてよ!彼氏でもないくせに!」

バイトの帰り道。いつもの応酬。吐く息はまだ白く、春だという実感がない。今日は特に寒くて、まるで冬みたい。

「あーあ、日菜子ちゃんはほんとにカタいねー」
「アンタがユルすぎんのよ!私一人暮らしなのよ!?」
「だからに決まってんだろ。実家になんか入れるかよ」
「キリッとすんな!馬鹿か!」

涼平は相変わらず軽口ばかりたたく。私たちはただのバイト仲間で、それ以下でもそれ以上でもない。なのに、彼は最近ずっとこの調子だ。

「あーあ、着いちゃった」
「ほら、さっさと帰って。私、明日は一講からなの」
「はーい。日菜子ちゃん、ちゃんと鍵かけて寝るんだよ」
「大きなお世話!」
「じゃあ、また明日バイトでねー」

そして涼平は闇へと消えていく。日課のように。何度も何度も繰り返されたこの日常に、私はすっかり麻痺してしまっていた。

家に入り、ふと。手元を見る。
ガチャ。鍵を閉めた。ふふん、言われなくてもこのくらいきちんとしますよ。

時刻は23時を回っている。急いでお風呂に入り、明日の講義の準備をして…

…いる時だった。


ガチャガチャ!


突然、玄関のドアノブが不自然な音を鳴らす。ざっと血の気が引いて、一瞬で、恐怖が全身を支配する。心臓があり得ないくらいに早く打っていて、耳の中で音がするほど。


ガチャガチャ!


こわいこわいこわいこわいこわい…。
足に力が入らない。立てない…。
あまりの恐怖に涙も出ない。

その時、スマホが鳴った。画面には、『中川涼平』の、文字。
震える手を精いっぱい伸ばし、なんとか、通話ボタンを押して耳に当てた。

『あ、日菜子ちゃん?ごめん遅くに。明日のシフトなんだけどさ』
「りょ、りょ、りょうへい、りょうへい」
『どうした?』
「家の前に、誰かいる…」

一瞬、間が空いた。

『今から行く。絶対家から出るなよ』
「りょ…」

そして電話が切れた。

短い電話のあとは、ドアノブが動くことはなかった。それでも1mmも身体を動かすことができず、腰を抜かしたまま、部屋の真ん中に座り込んだまま硬直していた。永遠のように感じられる5分が過ぎて、ドアの向こうから聞きなれた声がした。かなり息が上がっているようだった。

「…はっ、日菜子ちゃん…はぁっ、俺、涼平…。…ドア、開けれる?」

あまりの安堵にその場に崩れ落ちそうになったが、ぐっとこらえて立ち上がろうとした。が、やっぱり腰が抜けていて立ち上がれない。結局、這うように玄関に向かい、やっとの思いで鍵を開けた。

「日菜子!」

ドアが開くのと同時に涼平が飛び込んできて、きつく抱きしめられた。涼平の、汗の香りがする。

「りょ」
「大丈夫か!?」

その言葉を聞いた途端、色んな感情が溢れ出て、忘れていた涙がぼろぼろ零れた。涼平のくたびれた緑の上着を握りしめて、彼の肩口でわんわん泣いた。

少し落ち着いたころ、彼は私を抱えるように部屋に戻し、優しく座らせた。私に聞きながら、うちの台所であたたかいお茶を入れてくれた。

涼平によると、涼平が私の部屋の前に走り着いた時、人影は涼平の姿を確認して反対方向に逃げたそうだ。たまたまあのとき涼平から電話が来なかったら、私はどうなっていたのだろう?
あたたかいお茶と、彼の存在が私を励ましてくれたが、考えれば考えるほど恐ろしい。

「いったい誰だったんだろう…逃げちゃったんだから、また来るかもしれないよね…」

絶望感に暮れながら、私は膝を自分に寄せる。小さなテーブルをはさんで、涼平は何かを決意したような顔をしている。

「…………俺んとこ、来い」
「え?」
「この家引き払って、俺んとこ来い。お前の大学にも全然通えるから」
「………いやいやいやいや、何言って…」

こんな時に笑えない冗談…と、続けようとして、涼平の力のこもった瞳を見て、黙ってしまった。
冗談じゃないの?

「お前心配なんだよ。気ィ強いくせに隙が多くて。鈍感だし」
「な」
「ほんとは、こんな時に言いたくなかったんだけど。…日菜子」

「俺のこと、彼氏にして」

あまりのことに絶句して、口をパクパクさせていると、涼平は続けた。

「店の常連客の中に、明らかにお前目当ての客が何人か居んだよ」
「…え?」
「だから、バイト帰りに声掛けられたりしないように俺が…」
「…俺が?」
「…………なんでもない」

涼平は視線を逸らした。
雰囲気的にも、それ以上追及はできなかった。

「今日このまま、俺んとこ来い」
「で、で、でも…」
「……なにもなくて、よかった」

そう言った涼平が少し切なげに微笑むから、私はそんな涼平を知らなくて、


「…………うん」


と、言ってしまったのだった。


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日菜子ちゃんと涼平くんの話。
ふたりは大学生。

(2017.4.19)

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