「可愛いね」【前編】(内海くんと黒田さん)

高校2年の春、クラス替えが行われた。玄関前に貼りだされたクラス割を見上げながら、皆一様に自分の割り当てに感想を述べ、喜びながら、または諦めたように、それぞれのクラスに吸い込まれていく。元のクラスの友人が誰もいない2-Cに割り振られた私は、落胆と、不安と、ほんの少しだけの期待を胸に含んで、恐る恐る教室のドアをくぐった。黒板に貼られた席順は出席番号順で、男子と女子が隣同士に配列されている。くろだ、くろだ…と指でなぞると、たまたま、窓際の一番後ろの席だった。

鞄を机に降ろしてちらと隣を見る。そこにはまだ誰も座っておらず、静かに机と椅子が鎮座している。隣の席の人も一緒に見てくればよかったかな、男子だけど、もしかしたら知ってる人かもしれないし、などと頭の中で考えながら、
鞄から必要なものを取り出していく。窓の外を見ると、校庭沿いに桜が満開で、少しだけ心が和らいだ。桜って偉大だ。

「おはよー!」

ぼんやりと桜を眺めていた私は、その声で急に現実に引き戻された。明るく活発なその声の主はドカッと部活用のエナメル鞄を机に置いた。紺色に銀色の文字で「星城高校サッカー部」と書いてある。

「あ、お、おはよう」
「隣の席だね!一番後ろなんてラッキー!おれ内海。よろしくー!」

にこにこにこにこしゃべるその彼は、一番後ろがうれしいのか、本当に楽しそうにそう言った。背が少し高く、私は見上げるように言葉を返す。

「ありがとう。私、黒田です。よろしくね」
「黒田さんね!…あ、もしかして吹奏楽部!?」
「…え、どうして知ってるの?」
「よく部活で校庭周り走ってるじゃん?見たことあるかもと思って!」
「あ、そっかぁ。サッカー部の横も走るから…」
「あれ、おれサッカー部って言ったっけ?」

彼が心底不思議そうに頭を搔いたので、ちょっと笑ってしまった。

「鞄におっきく書いてあるよ」
「え?あ、そっかー!」

そう言って内海くんは元気よく笑った。私もつられて笑ってしまった。笑っているうちに教室に入る前の不安な気持ちはとっくにどこかへ行ってしまって、私は彼のおかげで最高のスタートを切ることができたのだった。

***

私にはお姉ちゃんがいる。2歳年上のお姉ちゃんは今年大学1年生になった。仲はとてもいいと思う。学校であったことや、興味のあること、ファッションのこと、なんでも話せるお姉ちゃん。吹奏楽もお姉ちゃんの影響で始めたことだった。ただ、私とお姉ちゃんの決定的な違いは「人を好きになったことがあるかどうか」、だった。
お姉ちゃんはよく恋をする。その話もしてくれる。そしてたいてい最後に、「花乃子は?」と、聞いてくる。私はいつも少し困って、「いつもどおりだよ」と、答える。お姉ちゃんは物足りなさそうに「そっかぁ。早く好きな人ができるといいね」と、言う。恋をしているお姉ちゃんは可愛い。けど、それだけじゃない。悩んだり、泣いたり、怒ったり、愚痴を言ったりもする。その姿を見ていると「恋」ってよくわからない。人を好きになるってどういうことなんだろう。そう思ってしまう自分もいて、高校2年になった今も、私は「恋」をしたことがないのだった。

***

内海くんは本当に明るい人だった。いつも元気いっぱいで、屈託なく笑いかけてくれる。私たちって元々知り合いだったっけ?と、錯覚するほどに彼はフレンドリーだった。お姉ちゃんしかいない私は、「男の子」のことがよくわからない。けれど、それすら感じさせないほどに彼はあけっぴろげだった。

新しいクラスになってから一週間ほど経ったある日、朝のHRの時間に誰かが担任の先生に向かって言った。

「席替えしないんですか?」

私は内心どきりとした。確かに、今の席順はクラス分けがされた時と同じただの出席番号順だ。一番後ろの席だし、窓から見える校庭は最高だし、内海くんは話しやすいしと現状、大満足のこの席を離れるのは非常に惜しかった。横目で内海くんを盗み見る。一番後ろの席で喜んでいたから、彼もきっと賛成じゃないだろう。案の定、下唇が少しとがっていて、わかりやすすぎてこっそり笑ってしまった。
先生は少し考えて、のんびり言った。

「そうだなぁ。じゃあ、俺の英語の授業で毎回やってる小テスト。全員80点以上取れたら席替えしよう。席替えのルールはクラス替えまでこれでいく」

えー!とクラス中から非難の声が上がった。先生は涼しい顔で「じゃあHR終わりー」と言いながら教室を出て行った。私はほっとして、小さく息をついた。内海くんが言った。

「やったね黒田さん。全員80点なんてそうそう取れないだろうから、しばらくは一番後ろの席にいられるね」
「ふふ、そうだね」
「いざとなったらおれが70点取るから」

突飛な提案にまた笑ってしまう。

「わかった。よろしくね」

***

そしてある日事件は起こった。
2時間目と3時間目の休み時間に、なんとなく席でぼーっとしている時だった。

「ねぇねぇ。黒田さん」
「なに?」
「黒田さんの名前、これ、なんて読むの?かのこ?」

クラス替えの時にもらった席次表の私の名前を指さして示しながら、彼はそう聞いてきた。どき、と心臓が小さく跳ねた。男の子に下の名前で呼ばれたのは初めてかもしれない。幼稚園くらいのときは、あったかもしれないけど。

「そうだよ」

深い意味なんてないんだから、名前を聞かれただけなんだから。そう心の中で繰り返して、上ずらないようにそっと返事した。そんな気苦労も知らず、彼は平気で追撃する。

「へー!女の子らしくて可愛いね!」

一瞬、何を言われたのかわからず頭が真っ白になってしまった。
え?かわいい?かわいいって言ったの?
え?なんて返事するのが正解なの?

『そうでしょ?』
『なに言ってるのー!』
『ありがとう!』
『内海くんこそ!』

様々な案が浮かんでは消え、浮かんでは消えしていると、

「誠司ー!」

教室の前のドアのあたりから、誰かが内海くんを呼んだ。女の子だった。

「あ、ごめん。部のマネージャーだ。ちょっと行ってくるね!」
「え、あ、う、うん、行ってらっしゃい」

彼はさっと立ち上がって、その子のもとへ行く。
2人が何かについて話しているのをぼんやり眺めながら、彼の机に取り残された席次表に視線を落とす。
「黒田花乃子」の隣は、

『内海誠司』。


(せいじくん)

心の中で、私も呼んでみた。




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2017.5.7
高校生の内海(うつみ)くんと黒田さんのお話。
書きたいままに書いていたら長くなったので、前後編に分けます。

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