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Vol.4 【勉強好き】の罠~"勉強"と"研究"の違いを通じて~

まなびエッセイストを名乗っているくらいなので、子どもの頃から、学び=勉強が好きでした。

新しい知識を得ることに、すごくワクワクしたから。
数式が解けて、答えが正しいのが嬉しかったから。

でも、こういわれると、ピンときませんでした。

「真面目だし、そんなに勉強が好きなら、研究者になったらいいんじゃない?」

研究者というと、理系だったら、フラスコに入った怪しい色の液体を混ぜて、ボンっ!と爆発させてるイメージ。

文系(美術館勤務の学芸員さんとか)だったら、図書館で過去の文献をすごーく読み込んでるイメージ。

学んだ知識を口で説明することはできる。

でも、彼らのように、実験したり調査したりして、それに対して自分の意見を言う・・・・というような、自分の姿は想像できなかった。

そんなモヤモヤが何度も芽生えたけれど、

「頭がいい人の行きつく先は研究者なんだ」

という先入観と、

「勉強してれば、きっと研究もできるようになるんだ」

という思考停止で、ずっと違和感をごまかしてきたのだと思います。

卒論で苦労し、気付いたこと

大学の卒業研究、一応テーマは決めたけど、そこからたくさんの疑問が浮かんできました。

これから何すればいいの?
どうやって研究進めていくの?
計画はどうやって立てるの?
その過程でミスがあったらどうするの?
そもそもミスってどうやったらわかるの?
誰が、研究結果が正しいことを証明してくれるの?

実際に卒業研究では、実験の条件が間違ってたとか、いろんな値を変えてなかった~とか何度もあって、何度も実験をし直し、データを取り直したんですよ。

何度やっても「またミスしていたら・・・」「この結論で正しいの?」と、不安で不安でしょうがなかった。

大学4年生の研究なんて、誰かが論文を元に再現してくれるわけなく。

(卒業論文も、体裁について指摘は入るものの、内容について言及されることはあまりないのです。)

もしあとで間違ってたことがわかったら、卒業認定取り消されるのでは・・・とビクビクしてた。

決められた答えに向かって、合わせていくのは好き。でも、

「導き出した答えが正しいかが、わからない」
という状況が、私にとってすごくすごく苦痛でした。

勉強は、答えがすでに分かっていることをインプットすること。
研究は、試行錯誤を通じて新たな理をアウトプットすること。


行列の計算は、複数のパラメータを同時に扱えて便利。
確率統計は、データがどれくらい正しいかを求められる。

ああ、勉強って研究を円滑に進めるための「道具」であり、勉強はそこで使えないと意味がないんだなぁ。

大学4年生になって、そのことにやっと気づいたんです。

研究者=「クリエイター」

世界の新しい理を生み出す、という意味では、研究者って「クリエイター」と一緒じゃないのかなぁ。

勉強とは真逆なのに、なぜか世間では「勉強ができる人=研究者」、な扱いを受けている気がする。

クリエイターはセンスや美的感覚、生まれ持った才能や美的感覚がないとなれないと思われているのに、
研究者は、一生懸命勉強した先の職業だと思われている。


勉強は好きだけど、研究は好きじゃないという人もいる(私)。
その逆で、研究は好きだけど勉強は好きじゃないって人も結構いる。

勉強が得意だからといって、研究も得意とは限らない。

そのことがもっと世間に知られたらいいなぁと思います。

"勉強好き"の行く末

大人になると、やたら勉強したくなり、子供のころもっと勉強しとけばよかった~ってなる人が多いと思います。

それは、勉強の本質(=世界の理を体系化したもの)を理解し、それを知ることの喜びが、人生経験を通じてわかったから。

だから人生経験が足りない子供のうちに「勉強しろ」と言われても、難しいんですよね。

そもそも日本は、勉強の本質ではない、「大学に受かるための知識の詰め込み」を強制される。

そして高校入試が終わるといきなり、
「これからは自由だよ!研究頑張ってね!」
って感じで投げ出される。

大学でも授業は真面目に受け、「勉強」はしてきたつもりでした。
でも、「研究」はできなかった。

学んだことを生かすために、どうすればいい?

大人になった今、その方法を研究するのが、まなびエッセイストとしての私の使命なのかもしれません。




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