社会的洗脳 気付いたこと
「自分の人生を生きる」とか「本当の自分」という言葉は手垢がつきすぎて、もはや改めてその意味をじっくり考えることもなく、そういった自分探しのフェーズはとっくに終えていると考えていたが、
どうやら大人になるにつれて色んな責任やら役割、潜在的な社会からの要請によって、自分が本当に何を欲していて、何をしている時が幸せなのかわからなくなっていることに最近気づいた。
日々頭の中にある想念や思考もよくよく吟味して「なぜそうなのか?」と何度も問うていると答えられない事が多い。
そのほとんどは社会の価値観を自分のものとして内面化、つまりは洗脳を受けているからだ。
自分のものでないと考えた代表的なものが下記。
・会社の成長をけん引する優秀なビジネスパーソンになる。(ねばらなない)
・ビジネス界で成功することが自分の生きがいだ。(であるべき)
・どんな人とでも明るく交流し、人間関係を広げることが楽しい。(であるべき)
細かくはたくさんあるのだが、特に強く自分を縛っていた鎖だ。
目の前に色んなリングがある。
リングごとにそれぞれ勝敗ルールや戦い方が違うが、リング自体に優劣は存在しない。
任意のリングAにあがってそこでの成否に拘泥するうちに、他の数多のリングの存在を忘れてしまいここが世界の全てだと錯覚する。
ここからの脱落はすなわち人生の終焉を意味するので、どれほど敗北し生傷が絶えなくても降りることが許されない。。。
といった強迫観念に縛られていたように思う。冷静になってみると馬鹿馬鹿しいほどの視野狭窄だが、簡単にはまってしまう。
一回この状態から脱してもう大丈夫ってものでもなく、おそらく何度もはまっては抜け出してを繰り返し、徐々に気づきの力が増していくにつれて回避しやすくなるのだろう。
リングを降りたあとの世界は自由だ。
あらゆる選択肢があるように見え、そのどれもが魅力的で何から手を付けていいかわからないほど。
この選び取れる自由を手に自分で決める。
その覚悟がなければ、フロムの言っているように権威や誰かの意見に従っている方が楽でいいやとなって、自ら考えることを放棄していく。
私はもうこの先人生の舵取りを誰かに任せることはしたくない。
自分の責任において選び、行動し、そこそこ世界を楽しみ、身近な誰かが躓いた時に自然と手を差し出せる人間になる。
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