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内田樹『日本習合論』への橋爪大三郎の書評に対する私見

記事:https://archive.ph/i8CJ6

コメント欄:https://archive.ph/0FrBY


適菜収氏のメールマガジンでも度々取り上げられている内田樹氏の新著『日本習合論』に対して橋爪大三郎が書評を発表した。私はその書評をYAHOOニュースで見かけたので、それへの私見を述べていくことにする。



<独裁は効率がいい。民主主義は議論に時間がかかる。独裁者は異質な他者を排除し、つぎつぎ最適な決定を下す。人びとは服従しそれなりに幸福だ。だが民主主義は危機に強い。自分は意思決定に加わった、危機は自分の責任だ、と思う人びとが起ち上がる>とあるが、議会制民主主義の要は政策決定のスピードを遅くすることである。適菜氏が言うように「政治にはワクワクもSPEEDも要らない」のだ。

この部分は中国共産党を彷彿とさせる記述でもある。確かに、今の中国共産党下における中国の庶民は(経済発展の恩恵等により)現政権に満足している人が多い。また、一党独裁政権だからこそ出来たともいえる迅速なコロナ対策によって、中国が感染拡大の抑止に或る程度、成功しているという状況を踏まえると、「(独裁政権が有能であれば)独裁政治であっても危機に強い」という主張も成り立りうるのではないかと私は感じた。


<独裁では、危機は誰かのせい、独裁者のせいだ。誰も起ち上がらず体制が倒れるに任せる>とあるが、独裁政権下では独裁者側と異なる言動をしただけで弾圧される恐れがあるため、誰も立ち上がらないというよりも、(弾圧の覚悟なしには)立ち上がりようがないという方が実情に近い。

現実問題として、今の日本では一部の人を除き、現政権における政策決定に関わることは非常に難しい。基本的にはどの候補者を政治家にするのか決める選挙のときぐらいしか、意思決定に加わることは出来ないのではないだろうか。その選挙ですら、かなりの割合で棄権者層が出ている日本の現状を見た場合、民主制においては、<自分は意思決定に加わった、危機は自分の責任だ、と思う人びとが起ち上がる>というのは、少し楽観的すぎる見方であるようにも感じられる。

なお、日本国憲法第十五条では、「選挙人(有権者)はその選択に関し公的にも私的にも責任を問われない」と定められており、選挙でどのような選択をしようとも有権者は責任を問われないのだ。つまり、有権者はどの候補者を選ぶかについては無責任であっても許されると考えることもできる。

だが、意思決定に関わったにも拘らず、責任を問われないというのは、日常生活での意思決定と比べれば不自然と言える。何故なら、日常生活における意思決定では、原則、その意思決定に関わった人に責任が生じるからである。

そのため、私は「民主制では選挙における民意に関して、その有権者が責任を負わないため、無責任がまかり通ってしまい、『自分は意思決定に加わった、危機は自分の責任だ、と思う人びとが起ち上がる』という現象は著しく稀である」と考えている。

一方で、「独裁政治においては、独裁政権が庶民による言論の自由を抑制しているがために、或る政策に落ち度があった場合、その失政の責任がその独裁政権にあるということが明らかであり、責任の所在がはっきりしている」と考えている。



現段階において、私は内田樹氏の思想を、半ば肯定的に、半ば懐疑的に捉えている。本記事を読んで下さった読者の方に感謝の意を述べたい。



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