恋猫2話(5)

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恋猫2話
 ミカンは恋猫?
(5)

翌日の昼。
 好明は、息子・友明の会社近くのイタリアンレストランで、息子と待ち合わせていた。
退職祝いに来てくれたのに、帰らなかった謝罪と礼をこめてのランチである。新橋駅の周辺には、かつて夢中になったプラモデル会社の店があるので、あとで寄ってみようと思っていた。
 外にもうけられたオープンカフェで待つこと五分。
「親父」
 友明が現れた。年は二十五、スーツ姿がやけに眩しく感じられるのは、自分が退職したためだろうか。中堅会社の営業職で就職し、慣れてきた頃だろう。お喋りなタイプではないが、少し沈んだ表情が気になった。
 それぞれ同じランチセットを頼んだ後、
「で、お母さんとはどう?」
 友明が口火を切った。
「どうと言われても……逢っていないし、話もしていないよ。一年と言ったから、そろそろ連絡がくる頃だと思うが」
 首をひねって、独り言のように呟く。
「考えても、考えても、なにを考えればいいのかさえ、よくわからない。いや、もちろん反省すべき点はあると思う。おれたちの時代は、家事や育児なんか手伝わなかったしな。特にワンオペ育児は辛かったのかもしれない」
「共働きだったからね。傍目で見ていても、お母さんはよく頑張っているなと思ったよ。食事や洗濯、後片付け、掃除と、ほとんどひとりでやっていたから」
 反論の気配を感じたのだろう、
「あ、もちろん、お父さんも頑張っていたのはわかる。こうやって勤めるようになると特にね。一家を支える大変さが、実感としてわかるようになったよ」
 友明は慌て気味に言い添えた。
「わかれば、いい」
 言葉少なに答える。運ばれてきたパスタセットを、父子はしばらくの間、無言で食べ続けた。
「お母さんだが」
「おばあちゃんだけどさ」
 さすがは父子と言うべきか。切り出すタイミングが、ぴたりと合った。好明は『約束』の話を聞いていないか訊ねるつもりだったのだが、仕草で先に言えと示した。
「大学を卒業するときだったかな。なんていうのか、その、おばあちゃんから友明も社会人になるんだから精子を調べてもらえと言われたんだ、メールで。お父さんは見栄っぱりだから言わないだろうけれど、精子の数が少ないんだと、おばあちゃんは言ってたよ。そういうのは遺伝するかもしれないからって」
「え?」
 好明は、一瞬ではあるものの、理解不能に陥っていた。社会人になった息子の口から、よもや精子の話が出るとは……しかし、後ろにセツ子がいるとなれば、この流れは納得できる。どこか沈んだ表情なのも理解できた。もしかしたら、すでに検査をし、精子の数が少ないという結果を得たのではないか。
「まったく、よけいなことを」
 急に食欲が失せていた。騒ぎの裏に母あり、である。やはり、美穂子が離婚約などと言い出したのは、セツ子が原因ではないのか。
「でも、というか、だから、遅かったんだよね。おれが生まれたのは、お父さんが四十歳のときだから当時としては遅い方だよね」
 友明は躊躇いながら訊いた。
「そうだ」
 真っ直ぐ目を見て答える。
「おれは精子の数が少なくてな、顕微授精という方法で、ようやくおまえと美波を授かった。嬉しかったよ、本当にな。二人が生まれた日のことは、今もはっきり憶えている。遅く生まれただけに可愛かった。おれとお母さんの間におまえを寝かせて、会社から帰ると寝顔を見たよ」
 寝顔しか見られない生活だったのを、さりげなくアピールしていた。猛烈サラリーマンだけでなく、海外赴任する会社員はエコノミックアニマルなどと揶揄されたりもした時代だ。早く帰りたくても、まわりが居残っていればできない。
 しかし、と、好明は眼前の話に頭を切り換えた。あの小さかった息子が、自分と同じこと――あの惨めな自慰行為を医者に言われてやったとは。
〝少なくとも四日間の禁欲生活をもうけた後、用手法にて精液を採取し検査します。うちはWHOの基準より厳しいので、精子の数が少なすぎる場合は、再検査になるかもしれません〟
 冷ややかで事務的な医者の通達もまた、好明にとっては忘れられないものになっていた。
言われたとおりの再検査になってしまい、いちだんと気持ちが暗くなったのは言うまでもなかった。
「少なかったんだ」
 友明はぽつりと言った。視線はランチの皿に向けられたままだったが、ほとんど手をつけていない。
「大丈夫だ」
 好明は小さいながらも声に力をこめた。
「おれの場合は、顕微鏡で授精させた卵子をお母さんの子宮に戻すという方法だったが、今は当時よりも医学が進んでいる。それにこうやって、おまえと美波を授かった。おれがくじけそうになると、お母さんに『どうしても、あなたの子供がほしいの』と言われてな。気力を奮い立たせたよ。まあ、立たせたのは、気力だけじゃなかったが」
 最後のひと言はよけいだったと後悔したが、友明は声をあげて、笑った。笑うと目元が美穂子によく似ている。二人の子供たちは、夫婦のいいところを取ったのではないかと、親バカを自認しつつ思っていた。
「『どうしても、あなたの子供がほしいの』か」
 友明は繰り返して、笑顔を向けた。
「すごい愛の告白だね。お母さんの気持ちが、こめられているのを感じるよ」
「まあ、子供がほしかっただけかもしれないがな。静岡のおばあちゃんは、ズケズケと言いたいことを言うじゃないか。嫌味や皮肉はあたりまえ、子供がいないのはうちだけだったからな。おれもそうだが、お母さんも肩身の狭い思いをしていた」
「いい言葉だよ、本当に。親父に逢うまでは気が重かったけど、なんだか、今すごく幸せな気分だ。胸がフワモコ状態になっている」
 照れくさかったのか、言い終えるや、猛然とパスタを食べ出した。訊くのは野暮と思いながらも好明は問いかける。
「フワモコ状態って、どういう意味だ?」
「ミカンだよ」
 友明は答えた。
「犬や猫は、フワフワでモコモコじゃないか。猫の方がそういう感じが強いけどさ。撫でたり、抱いたりすると、幸せな気分になるからね。癒されるというのか。自分ではわからないかもしれないけど、親父はミカンが来てから、表情がずいぶんやわらいだよ」
「そうか?」
「うん。美波も言ってたけどさ。ミカンがまた、よく懐いているんだってね。毎晩、一緒に寝ているって聞いた」
「勝手に入ってくるんだ、ミカンがおれのベッドにな。そうすると」
 夢について話そうとしたが、さすがに思いとどまる。美穂子に離婚約を言い渡されて、とうとう頭がおかしくなったかと言われかねない。
「なに?」
 訊かれたのを幸いと思い、別の問いを投げる。
「お母さんのことだが、なにか聞いていないか」
 口にした後で子供に相談する話ではないと思い直した。これは夫婦の問題であって、友明と美波を巻き込むべきではなかった。
「あ、いや、すまない。忘れてくれ。おまえたちには……」
 父の気持ちを察したのだろう、
「お母さんは、ひとりでじっくり考えたかったんだと思うよ」
 友明は覆い被せるように言った。
「はっきり聞いたわけじゃないけど、本部から経営陣に加わらないかと打診されているらしいんだ。日本は男社会だからね。現場では女性を優遇している会社でも、経営陣に女性が名を連ねるのは、そう多くないと思う。七十ぐらいまで勤めることになるかもしれないから、親父に迷惑かけるんじゃないかと考えたのかもしれないね。それで、まずは家事力を身につけてもらおうと思ったのかも」
 告げた後、仕草で内緒だよと示して、運ばれてきたデザートを食べる。なるほど、と、好明は納得していた。
(おれはフラリーマンだったので、家事と育児はまるで駄目。おまけに妻の昇進に嫉妬する心の狭い男だ。美穂子は当然、お見通しだったろう)
 確かにこの一年というもの、必死に考え続けた。なにが悪かったのか、悪いのは美穂子の方ではないのか、男でもできたんじゃないだろうな、急に離婚約などと言い出して……と、相手を責めてばかりいた。ここにきて急に昔の夢を見るようになり、自分にも悪い点があったと、ようやく反省し始めている。
「大丈夫だよ」
 友明が言った。
「ミカンは恋猫なんだと、美波が大騒ぎしていた。大学で人気になっているらしいよ。恋猫に逢うと恋が成就するという、まことしやかな都市伝説が広まっているんだ。ぼくも会社の連中にお腹のハートマークを見せたら『おお!』と吃驚された。みんな携帯の待ち受け画面にしているよ」
 それに、と、さらに続ける。
「さっきの素晴らしい言葉を告げたお母さんが、親父と別れるとは思えない。お父さんは疑っているかもしれないけどさ。男ができたなんてことは、絶対にないと思うな」
 息子は幸せな表情のまま言い切った。彼の顔を見ているだけで、好明もフワモコ状態になってくる。
 とはいえ、『約束』については、今も答えは霧の中だった。



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