恋猫2話(2)

画像1


恋猫2話
 ミカンは恋猫?
(2)
妻の美穂子が来ているか、来ていないか。
 家へ近づくにつれて、鼓動が速くなってくる。血圧も上がっているかもしれない。速歩きになりそうな歩みを、意識して遅くしていた。おれは平静だと、自分自身に言い聞かせていた。
 角を曲がる直前、塀の上にいた猫が鳴いた。
「ミカン」
 好明が名前を呼ぶと、幅のない塀の上で器用に向きを変えて、自宅の方へ向かった。いやでも角を曲がって、あとを追う形になる。築二十五年、最寄りのJR国立駅から徒歩二十分。思えば二年前にリフォームしたのは、すでに妻の心に離婚が頭にあったからだろうか。
(バリアフリーにしたり、二階にまでミニキッチンを設置したあれが引っかかる。売るつもりなんじゃないだろうな)
 好明の退職金の一部を住宅ローンの残金に充てて、どうにか払い終えていたが、離婚したら我が家はどうなるのか。考えたくないことだが、もしかしたら、男でもいるのではないだるか。などと思いつつ足は速くなっている。
(連絡もして来ないで、なんだ。来たのが嬉しいわけじゃないぞ。ミカンが腹を空かせているようだから帰るだけだ)
 とうの昔に玄関の明かりを確認していたが、またしても歩みを遅くしていた。あくまでも猫に餌をやるからと言い訳していたが、家が目前に迫ると駆け込むようにして玄関扉を開けた。
 ミカンがするりと足下をすり抜けて、先に家へ入る。
「ただいま」
 中に入った瞬間、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐった。台所で料理を作り、だれかが入浴した匂い、部屋の空気が入れ換えられて爽やかになっている感じなどが、綯い交ぜになっている。家が本来の姿を取り戻していた。緊張していた身体と心が、ほっとゆるむのを感じていた。
「お帰りなさい」
 娘の美波(みなみ)が、長い髪をタオルで拭きながら廊下に出て来た。
「おまえ、旅行はどうした」
 訊きつつ、目は奥のリビングルームに向いている。いつ、美穂子が姿を見せるかと気が気ではなかった。
「ちゃんと伝えたのに忘れちゃったんだ。今朝、帰って来ると言っておいたじゃない。今日はお父さんが定年退職する日でしょ。憶えているわよ。きちんとお祝いをしなくちゃって、お母さんも連絡してきたしね。お父さんを驚かせて、ビックリパーティに……」
「美穂子」
 こらえきれずに名を呼んでいた。揃えられていたスリッパを履き、急ぎ足でリビングルームに行く。しかし、妻はいなかった。
 リフォームした美しいキッチンのガス台には、大小二つの鍋が載っている。美穂子がよく使う片手鍋で、室内の綺麗さとは違い、かなり年季が入っていた。
「お母さんは?」
 さりげなく訊いた。
「待ってたけど、帰ったわよ。今、何時だと思ってるの、お父さん。もう九時だよ。お兄ちゃんも来ていたけどさ。ご飯だけ食べて帰っちゃった」
「友明(ともあき)も来てたのか」
 一気に力が抜けてしまった。背広を脱ぎ、ネクタイをゆるめ、音をたててキッチンの椅子に腰かける。美波が冷えたビールとコップをテーブルに置いた。
「ご飯は?」
「あ、ああ、食べるよ」
 つまらない意地を張るんじゃなかったと後悔したが時すでに遅し。午前中に会社のささやかな退職の会が終わった時点で、真っ直ぐ家に帰るべきだったのだ。
(これが、おれの悪いところだ)
 重々承知している。素直になれないのは、最大の欠点だろう。娘のお酌で飲んだビールが、ほろ苦く沁みた。
「それで、お父さん。お見合いパーティはどうだったの?」
 突然、振られた話題に目を剥いた。驚きのあまりビールがおかしな場所に入ってしまっのだろう、激しく噎せた。慌て気味に美波が背中をさすってくれる。好明の膝に乗ろうとしていたミカンが、大きく目をみひらいていた。
「大丈夫? お水持って来ようか」
「おま、おまえが変なことを言うから」
 好明はかろうじて答える。
「な、なんで知って……」
 さすがに途中で言葉を止めた。これでは自白しているようなものではないか。美波がふふんと鼻を鳴らした。
「電話の脇にあったこれはなんだね、好明君」
 ミステリードラマのような口調で、美波がヒラヒラさせたのは、一枚のメモ用紙。書いてあるのはお見合いパーティの会場になったホテル名だけだ。
「会社の同僚たちが、退職パーティを開いてくれた会場だよ」
 好明はとぼけた。
「へえぇ、そうですか。お母さんがネットで調べたら、そのホテルで中高年専門の結婚相談所が、お見合いパーティを開いていたそうです。あたしはまさかと思いましたが、こんな時間になったのは」
 わざとらしく、時計を見やる。
「やはり、あなたが犯行を犯したのは確かなようですね」
「なにもやましいことは、ない。男の人数が足りないから数合わせと言われて頼まれたんだよ。ほら、前に言っただろう。大学時代の親友が再就職したんだよ、メモに書いたその結婚相談所に」
 一気にビールを煽ったが、危うくまた、噎せそうになった。
「本当に嘘をつくのが下手だなあ」
 美波は、蕗の煮物や独活の酢の物といった春らしい肴をテーブルに並べ始める。漬物は美穂子が欠かさずに手入れをしている糠漬けだろう。ひとり暮らしをしているマンションに、糠漬けの容器ごと引っ越したので、しばらく食べていない。好明の大好物ばかりで、いつもながらの美味しさだった。
「筍ご飯もあるよ」
「もう少しあとでいい」
 好明は気になって仕方がない。
「なんというか、その、お母さんは」
「笑ってたよ」
 美波はあっさり言った。
「悪いことができない人なのよねえって」
 それがカチンときた。
「悪いこと?」
 不満をあらわにして、告げる。
「離婚約を突きつけられたから、友達に相談しに行っただけじゃないか。だいたいがだ、来るなら来ると連絡するべきだろう。なにがビックリパーティだ、おれにも色々都合があるんだよ。飲みに行こうと誘われたが、それを断って帰って来たのに」
 語尾がだんだん消えていった。だれかのせいにするのも悪い癖のひとつだが、今回は自分にも言い分がある。お祝いパーティをする予定だと、メールでいい。なぜ、知らせてこなかったのか。
 黙り込んだのを気にしたのか、
「お母さん、お父さんが猫を飼い始めたのが意外だったみたいよ。驚いてた。しかも、ちゃんと名前までつけちゃって。あたしが仔猫を拾ってきたときは、家が汚れるから駄目だと言ったよね。動物は好きじゃなかったんでしょう?」
 美波はミカンを膝に抱き上げた。
「拾ってきたわけじゃない、うちの庭に勝手に居着いたんだ。そいつはミカンが好きなんでね。だから名前はミカンとつけた」
 ごまかすように言った。
「最初はなにを食わせたらいいかわからなくて、欲しがるまま蜜柑を与えちまってな。腹をこわすから、やめた方がいいと獣医に言われたんだよ」
「え、獣医さんに連れてったの」
「行ったら、いかんのか」
 憤然と言い返した。
「ゲーゲー吐くし、下痢はするしで、大変だったんだぞ。猫用の砂が汚れるのなんのって。死なれたら寝覚めが悪いから連れて行ったんだが、保険が使えないんだよ。高くてびっくりした。ところで、おまえはまだしばらく大学は休みなのか」
 ミカンの世話を押しつけようとしたが、
「うん。でも、忙しいんだ、クラスのゼミがあるから。お父さんには言っていなかったけど、あたしさ。キャビンアテンダントになるつもりなんだよね」
 すかさず言い返された。
「キャビンアテンダントって、おまえが通っている学部は」
 美波は二年生だが、早くも就職の話が出て内心、驚いている。自分が通っていた頃の大学とは、だいぶ趣が違ってきたようだが、そういった相談はいっさいされていなかった。
「文学部。ただ、うちの学校はビジネス学部があるからさ。そこの先生とも相談できるのよ。航空業界もご多分に洩れず不景気で給料は下がっているけど、試してみる価値はあるかなって」
 美波は手酌でビールを注ぎ、飲み始めた。好明はとりあえず退職の夜をひとりで過ごさずに済み、安堵している。急に空腹を覚えた。
「まあ、おまえがやりたいと言うなら反対はしないよ。どうせ美穂子には話しているんだろうしな。あれこれ言ったって、おれは蚊帳の外だ。おい、飯だ、飯。そろそろ筍ご飯をくれ」
 皮肉を忘れなかった。
「まったく、それぐらい自分でやれっての」
 文句を言いながらも立ち上がった。何度か美波の膝からおろされているミカンは、好明の膝を狙ってきたので、「来い」と膝を叩くと素直に乗る。
「よく馴れてるね。お父さんが獣医さんに連れて行くほど、ミカンに入れあげているとは思わなかったな。毎日、一緒に寝てるから情が移った?」
「ミカンを抱いて寝るとあったかいんだよ」
 言い訳しながらも自然に顔がほころんでいる。
「妻に捨てられかけている夫にとって、ミカンは救世主だ。おれはもう、ミカンがいてくれれば、美穂子は要らないな」
「はいはい、お酒を飲むと気が大きくなりますね」
 美波は筍ご飯と温め直した味噌汁を置いたが、匂いを嗅ぐミカンを見て、駄目と叱りつけた。
「人間が食べるものは、あげない方がいいんだって、お母さんが……あれ?」
 不意に声を上げ、好明の膝にいるミカンのお腹をしみじみ見つめる。筍ご飯を食べないように抱きかかえていたので、美波の方に腹の部分が向いていたのだろう。
「あっ、あぁっ」
 突然、大きな声を上げる。
「やっぱり、そうだ!」
 ミカンを大の字のような恰好で抱きあげた。あらためて、腹を見ている。
「このコ、噂の恋猫だよ、お父さん」
「え?」
「恋猫。ほら、見て、お腹にハートマークがあるでしょ」
 と、こちらに腹を向けられたが、ハートなのか、ダイヤなのか。黒白の毛が交じってしまい、はっきりしなかった。
「うーん、ハートと言われれば見えなくもない、かな?」
「ハートだってば。恋猫に出逢った人は、恋が成就するっていう都市伝説を知らないの?しかも出没場所は、武蔵野なんだってさ。うちも武蔵野だよね、国立だから」
「うん、武蔵野ではあるだろうな」
「よかったねぇ」
 美波は笑顔を浮かべて、ミカンを好明の膝に戻した。
「恋猫がいるから大丈夫、お母さんとはうまくいくよ。新しい恋をしているようなものなのかもね。それで恋猫が来てくれたのかも」
 恋だのなんだの言われても、照れくさくなるだけだった。思い出されるのは、離婚約を突きつけられた日のこと。
「ああ、そうだ。おまえ、美穂子に『約束』の話を聞いていないか。約束した場所で約束の日、いや、約束した日に、だったかな」
 気がつけば考えているのだが、約束した場所で約束した日に逢いましょうと言われても、その場所も日付けも憶えていないのだった。もしや、美波が知っているのではないかと思ったが……。
「なに、それ」
 怪訝な目を返されて頭を振る。
「なんでもない。筍ご飯のお代わりを頼む。味噌汁も」
「いつのもコンビニ弁当とは、食べる勢いが違いますね」
「よけいなことは言わなくていい」
「はいはい。お父さんもそろそろ料理ぐらい憶えたらいいのに。ワンオペ育児や家事は、あたしは絶対にいやだな。お父さんはフラリーマンだったでしょう。保育園のお迎えに来たことないもんね」
 ご飯と味噌汁のお代わりをテーブルに置いた。
「一度か、二度ぐらいはある、はずだ」
「そう思いたいだけじゃないの。家事で思い出したけど、さっき静岡のおばあちゃんから電話があったよ。近々、また、来るそうです」
 話しながら眉をしかめている。静岡のおばあちゃんというのは、好明の実母のセツ子のことだ。
「あたし、静岡のおばあちゃんは苦手だな。来てくれるのは、ありがたいけどさ。スチュワーデスなんかやらないで、早く結婚しなさいとうるさいんだよね。出生率が減るのは、女が働くせいだと言い切ってたな。キャビンアテンダントと言っても通じないから、おばあちゃんと話すときは死語のスチュワーデスになるの。就職先を訊かれたから答えただけなのに、教えなきゃよかった」
 携帯に連絡が入ったのだろう、受けて話し始める。
「おまえ、本当に恋猫なのか?」
 好明はミカンに訊きながら、美波の様子を油断なく見て、筍ご飯をひと口、あげた。恋猫でありますようにと祈っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?