恋猫2話 (1)

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恋猫2話
 ミカンは恋猫?
(1)
「離婚(りこん)約(やく)を実行したいと思います」
 石原(いしはら)好明(よしあき)は、妻の美穂子(みほこ)から、いきなり離婚約を突きつけられた。
「一年間、別々に暮らしましょう。その間に考えた方がいいと思うのよ、これからのことをね。ちょうど一年後にあなたもわたしも定年退職するじゃない。あなたは嘱託を終えて六十五、わたしは六十。還暦ね。そのときに話をして、お互いに無理だとなった場合は離婚届けを出す。約束した場所で、約束の日に待っているわ」
 そう告げるや、さっさと家を出て行った。年金の足しになるべく買い求めておいた吉祥寺のワンルームマンションに、彼女はひとりで住んでいる。
 好明は「なぜ?」「どうして?」と自問自答しながら、慣れない家事をこなし、会社勤めを続けた。
「わけがわからん」
 考えが声になる。
「え?」
 隣にいた女性が、怪訝そうに見やった。
「なんの話ですか」
「あ、いや、なんでもない、ではなくて、なんでもありませんよ。大盛況なんで驚いているんです。こういう会は初めてなので」
 と、広い会場を見まわした。中高年専門のお見合いパーティを開く会社に、大学時代の親友が再就職していたため、様子を見られないかと頼み込んで今日の参加となっていた。離婚や死別した男女という点において、好明は当てはまらないが……遅かれ早かれそうなるのであれば、今から準備が必要ではないだろうか。
 かなり豪華なディナーの後、フリートークの時間になって、会場内はいちだんと賑わいを見せていた。
「あら、初めてなんですか。だから緊張してらっしゃるのね」
 六十代の女性は、話しながらも物色するように違う男性に目を走らせている。ギラギラした目つきは、まるで獲物を狙う野獣のよう。気合いが入っているのが伝わってきた。
「ええ、まあ、慣れていないので」
「失礼ですが、お年は?」
 女性の問いに一瞬、不快感を覚えたが、答えた。
「六十五歳です。嘱託を終えて、定年退職したばかりなんですよ。国内外の雑貨品を扱う会社の経理だったんですが、小さな会社でしたので退職金などは口にするのもお恥ずかしいような金額です」
 機先を制して言った。さっきから何度、同じ質問をされたことか。女性たちの興味は年齢や貯金額、年金は月々いくらか、持ち家なのか、借金の有無、健康状態はどうか。そして、最後に家族の話が出る。好明はつい腕時計に目をやっていた。
「いやだ、お金の話なんか」
 そう言いかけて、女性は苦笑いする。
「あなた、えーと、石原さんとは反対に、わたしは慣れすぎているのかもしれませんね。顔にお金のことが浮かぶようじゃ駄目だわ。これが何度目になるかしら。なかなか思うような方に巡り逢えなくて」
 正直な言葉に初めて好印象をいだいた。
「だれでも気になりますよ。再婚した相手に借金でもあったら老後は真っ暗ですからね。ちなみに、わたしは幸いにも借金はありません」
「ご丁寧にどうも」
 女性は微笑する。先刻までの作り笑いが、少しやわらいだように感じた。
「二次会はカラオケのようですけれど、石原さんは参加なさるの?」
「あ、いや、猫に餌をやらなければならないので、わたしは帰ります。初めてで疲れましたしね」
 ふたたび腕時計を確かめていた。
「うまい断り方ね。もしかしたら、着物姿の猫だったりして……」
「石原さん」
 受付にいた親友の高野(たかの)に呼ばれた。他人行儀になったのは、あくまでも結婚相談所の職員と登録者であることを周囲に示したかったからだろう。
「ちょっと失礼します」
 好明は言い、立ち上がって受付に足を向けた。心のどこかで、ほっとしていた。
「助かったよ」
 思わず本音が出た。
「いやはや、すごいね、みんな。男も女も肉食系のオンパレードだ」
 肉食系もオンパレードも今では死語かもしれない。同い年の高野は気にするふうもなく、小さく笑った。
「そりゃ、そうさ。これからの人生がかかっているからな。申し込みの書類に記してもらったときにわかっただろうが、うちへの登録は双方の財産をすべてオープンにして、ディスクローズすることが大前提だ。真剣にならざるをえないよ。おまえみたいに、ちょっと様子見なんていう気楽な人はいないさ」
「おまえから見れば、そうかもしれないが」
 気楽という部分は引っかかったが、図星だったので、あれこれ言うのはやめた。呑み込んだのを察したに違いない。
「今日は美穂子さん、家に来ているかもしれないぞ。会社を午前中に退職する件は、知らせたんだろう?」
 高野は一歩踏み込んでくる。去年の四月、離婚約を突きつけられた時点で、彼には何度か相談していた。
「もちろん、知らせたよ。音沙汰なしだったから、ここへの参加を決めたんだ。家にひとりでいるよりも、ましだと思ったんで」
 会社員の長男は部屋を借りて自立し、長女は大学生で春休みだが、アルバイトをした金で友人と海外や国内旅行するのが常だった。今回はどこへ行ったのかわからないが、今日も帰って来ないのはわかっている。
「おれが退職する日なんて、だれも気にしていないよ」
 あまりにも率直すぎたかもしれない。
「おまえに内緒で集まり、ビックリパーティを開くつもりなのかもしれないぞ。家には電話してみたのか?」
 友は慰めるような言葉を口にした。
「いや」
「美穂子さんと話し合ってみたのか」
「話し合うもなにも、とにかく一年間は別々に暮らすとしか言わないんだ。あいつも定年なんだが、会社に引き止められているのかもしれないな。おれと違って優秀だからね。まだまだ現役で頑張れるよ」
 無理に笑顔を浮かべたが、わからないほど鈍くないだろう。
「おまえも頑張って来たじゃないか。だからこその退職金であり、年金だ。正直な話、おれは羨ましいよ」
 意外な言葉に思えて、訊き返した。
「羨ましい? なにが?」
 無意識のうちに声がとがっていた。一流商社に勤めた友は、同期のなかでは出世頭だった。知り合いに誘われてこの結婚相談所に再就職したらしいが、嘱託とは思えない高給であるのは聞いていた。
 いったい、自分のなにが羨ましいと言うのか。慰めの延長だとすれば、いささか腹が立ってくる。
「私的なことなんで言わなかったが、うちは親父が若年性認知症でね。おふくろは何度もガンの手術をしている。おまけに女房の両親も介護が必要になって、ダブル介護のうえに老々介護だ。おれは長男で両親と同居、妹や弟はいるが、介護を担うのはうちだ。女房は一人娘で他に頼れる兄姉はいないからな」
 高野は溜息をついて、続ける。
「夫婦でのんびり温泉旅行を楽しむなんて夢のまた、夢だよ。ここの給料は右から左に消える日々さ。退職金もだいぶ切り崩しているんだ。これから先、どうなることか」
 友の告白に少なからず驚きを覚えた。どちらかと言えば、いつも好明が愚痴って、彼は聞き役という感じだったからだ。
「そんなことになっているとは……知らなかったよ」
「気にしないでくれ。よけいな話をしちまったな。それより今日はもう帰った方がいいぞ。おまえ、何度も腕時計を見ていたじゃないか。もしかしたらと思っているんだろ、美穂子さんが来ているかもしれないって」
 友はお見通しだった。
「そんなに時間を気にしていたか」
 好明は、苦笑するしかなかった。
「ああ、もう、見えみえだったよ。おれもそうだが、おまえも今まで頑張ってきた。もちろん美穂子さんもな。うちのは専業主婦だったじゃないか。女房には言えないが、稼ぎがおれだけというのは、けっこうきつかったね。そういう意味でも羨ましいよ」
「共働きも楽じゃないよ。おれたちの時代は専業主婦があたりまえだったじゃないか。おふくろは、女は家にいるもんだという考えだったから、冷たい目で見られることが多くてね。美穂子はよく落ち込んでたよ」
「相談に乗ってやったか?」
 高野は笑いをまじえて鋭い問いを投げた。友ならではだろう。好明も笑顔で小さく頭を振る。
「いや、聞こえないふりをしてたな」
「そういう小さな積み重ねが、やがて大きなことにという流れかもしれない。お見合いパーティの席で言うことじゃないかもしれないが、これから家族と自分のためになにができるか、じっくり考えてみろよ。美穂子さんも距離を置いて考えたいのかもしれないしな。おれが間に入った方がいいならば、いつでも声をかけてくれ。駆けつけるから」
 友とはなんとありがたいものなのか。好明以上に大変だろうに、真心のこもった言葉を聞き、胸が熱くなった。
「高野」
 あふれそうになった涙を懸命にこらえる。この一年間、家にほとんどいない娘と二人暮らしだったので、人とまともに話をするのはひさしぶりだったことに遅ればせながら気づいた。知らずに悶々としていたらしい。
「そういえば、『約束』の内容は思い出せたのか」
 あらたな問いには力なく頭を振る。
「いや、駄目だ」
「そうか。ま、なにかあったら連絡してくれ」
 最後まで温かい友の言葉に送られて、好明はパーティ会場をあとにした。

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