恋猫2話 (3)

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恋猫2話
 ミカンは恋猫?
(3)
 ミカンは恋猫、ワンオペ育児、フラリーマン。
「保育園のお迎えに来たことないもんね」
 美波に色々言われたせいだろうか。その夜、好明は夢を見た。コンビニで忙しく立ち働いているのは……。
 美穂子だった。
「いらっしゃいませ」
 明るい笑顔で客を出迎える。少しでも家計の足しになればと、近所のコンビニにパートで勤めたのだが、美穂子は思わぬ商才を発揮した。駅から離れたパート先の店は今ひとつ客の入りが悪かったのだが、主婦として子供が多いのを知っていたに違いない。流行っていた食玩を棚いっぱいに置いたり、夏は花火を大量に仕入れたりして、確実に売り上げを伸ばした。
 その結果、一年足らずで店長に昇進。
 人当たりがいいだけでなく、研鑽を怠らず、次々にアイデアを出すことが評価されたのだろう。三年目に店舗経営指導者からオーナーになることを勧められたが、それは無理だと答えたところ、それでは店舗経営指導者をめざしてはどうかと進言された。
「わたしに務まるかどうか」
 自信なさそうに答えた美穂子を、店舗経営の男性指導者は力強く励ました。
「大丈夫ですよ。石原さんはスタッフにも慕われていますし、なによりアイデアガールじゃないですか。人気のアイスクリームを思い切って仕入れたあれも大成功だったでしょう。冷凍庫半分もの面積を取っていましたからね。わたしは興味津々でした」
「わたしは生きた心地がしませんでした」
 美穂子は笑って答えた。
「実際、仕入れに失敗したこともあります。なんとか黒字ラインをキープできたのは、ご助言のお陰だと思います」
「いや、謙遜もすぎると嫌味になりますよ。この店はいつ来ても、綺麗にフェイス陳列されています。スタッフの『いらっしゃいませ』も大きな声で元気がいい。気配り、目配りが行き届いているのを感じるんですよ」
 フェイス陳列とは、商品の表面が見えるように整列させておく並べ方だ。美穂子は常に気をつけていた。
「ありがとうございます。褒めていただくと、やる気が出るんですよ。それをわたしもスタッフのみなさんに実行しているだけなんです」
 恥ずかしそうに笑う姿が心に焼きついた。美穂子が休みの日に、好明は妻が店長を務めるコンビに行ったことがある。確かに清潔で、美しく、スタッフも非常に感じがいい印象を受けた。
(そうだ、おれは評価される美穂子に嫉妬していた)
 夢の中でようやく自分自身を見つめていた。小さな会社の経理をしていた好明は、入社したときに自分の退職金や年金の額がわかった。せめて経理課長をと目指したものの、係長止まりで終わっている。子供を授かるのが遅かったので学費などがかかり、気は進まなかったが嘱託まで勤めた。
(入社したとたんに見えたおれが退職する日。ところが、美穂子はどうだ。オーナー経営を勧められたうえ、とても無理だと断ったら、次は店舗経営の指導員だ)
 美穂子から直接、聞いたわけではないが、お喋りな美波が逐一、勤務状況を教えてくれた。お母さんはすごいんだよ、と言われるたび、ちっぽけなプライドにひびが入るのを感じた。保育園のお迎えを何度も頼まれたが、忙しくて無理だと嘘をつき、友人を誘って飲み歩いた。
(言われるまでもない、わかっていたよ。おれは確かにフラリーマンだった)
 夫婦の会話は徐々に減っていき、休日も違うことから、寝て過ごすような日々だった。家事や育児は手伝った憶えがない。しかし、それがあたりまえの時代だったのだ。
(わかっている、わかっているよ、おれにも責任がある)
 うなされるようにして、目が覚めた……。

「好明。いつまで寝てるの」
 起き上がろうとしたとき、母親・セツ子の怒声がひびいた。静岡から昨夜、来ていた。
「これからは毎日が日曜日ですけどね。だらしのない生活は駄目ですよ。国立市にはシルバー人材センターみたいなものはないのかしら。草むしりでもなんでもいいから、やらせてもらいなさい。そうすれば、いくらかでもお金になるから」
 年は八十五だが、足腰と口は達者でかくしゃくとしている。戦後の厳しい時代を生きぬいた経験から、苦労性で貧乏性だった。質素倹約は言うに及ばず、男は外で働き、女は主婦として家を守るという凝り固まった考えに今も縛られている。
「そうだな」
 逆らうとうるさいので、あたりさわりのない答えを返した。布団の中を見てミカンを探したが、今朝はいなくなっていた。
「おふくろが来たから、さっさと逃げたか。賢いやつだ」
「なんですって?」
 キッチンに戻りかけたセツ子が訊いた。
「いや、なんでもない」
「パジャマは脱いで、ちゃんと着替えなさいよ。ご飯は顔を洗ってから。いいわね」
「はいはい」
「はい、は、一回でいいの」
「はい」
 本当にうるさい婆さんだと内心、思ったが、むろん口には出さない。親友の高野には悪いが、少しボケてくれた方がいいのではないかとも感じている。父を二十五年前に亡くした後、セツ子は度々、長男である好明の家へ来るようになった。
「猫なんか飼うのは反対ですよ」
 キッチンテーブルの前に座ったとたん、文句が出る。
「わたしは猫がきらいなのよ。家と外を平気で出たり入ったりするでしょう。汚くてね。飼うなら犬にしなさい、それも柴犬。主人に忠実で飼いやすいし、番犬がいれば安心できるから」
 わたしは猫がきらいという部分が気になったものの聞き流した。番犬役ぐらい務めますよと心の中で答えて、続ける。
「ミカンは、美波が拾ってきたんですよ。可愛がっていますからね。四の五の言わないでください。猫ぐらい、いいじゃないですか。そういえば、美波は?」
「とうの昔に出かけましたよ。ゼミの集まりだとか言っていたけれど、春休みなのに忙しいのね」
「あいつも逃げ足が早いな」
 呟いたが、今回は聞こえなかったらしい。
「そうそう、美波だけれど」
 セツ子は言った。
「わたしはスチュワーデスになるのは反対ですよ。花嫁修業をして、いい人と結婚するのが女の幸せ。友明と美波は、保育園に預けっぱなしだったでしょう。あれはよくないと思うわ。妙に大人びて可愛げがなくなるのよ」
 不愉快な言葉をBGM代わりに、並べられた朝食を黙々と食べ続ける。家事をしないで済むのは嬉しいが、口うるさいのには辟易していた。
「美穂子さんは、どうして勤めを辞めないのかしらねえ」
 妻の話が出たので、つい言い返した。
「ぼくは薄給でしたからね。年金や退職金も少ないから、長い老後の資金が足りないんですよ」
「それを遣り繰りするのが、主婦の腕の見せどころじゃないですか。足りないからパートで補うというのが、そもそも間違いなんですよ。離婚約だかなんだか知らないけれど、本当に一年で戻って来るのかしら。男でもできたんじゃないでしょうね」
 ちらりと好明に意味ありげな目を投げた。最後の部分に冷や汗が滲みかけたが、平静を装っていた。
「まさかとは思うけれど、あんた、また、悪い癖が出たんじゃ……」
「な、なんの話ですか」
 焦るあまり、口からご飯粒が飛び出した。
「あーあ、汚いったら」
 セツ子はわざとらしく拾いあげ、ふたたび意味ありげな目を向ける。
「わたしは忘れていませんよ、二十年前だったかしら。あんたは行きつけの小料理屋の女将と男女の仲になった。妻には気づかせないのが男の嗜みなのに、美穂子さんは気づいて大騒ぎ。あのときも別れ話が出たわよね」
「…………」
 おれも早く逃げよう、と決め、味噌汁をご飯にかけて流し込んだ。好明だって忘れてはいない。自分が四十五、美穂子は四十。二人目の美波が生まれたばかりで、セックスの面で不満があった。
 だが、浮気が悪いのはわかっていた。土下座して謝り、なんとか事なきを得たが、よくもまあ、憶えているものだ。
「わたしが美穂子さんに『浮気は男の甲斐性。浮気のひとつや二つ、できないと馬鹿にされますよ』と諭してあげたから、おさまったようなものですよ。あのときは大変だったわねえ」
 なにをぬかしやがる、と、喉まで出かかった反論を呑み込んだ。静岡の父は女癖が悪くて、騒ぎになったのは一度や二度ではない。その都度、セツ子は包丁を持ち出して、殺すだの死ぬだのと喚き散らした。
(自分のことは棚に上げて、か。人様を諭すほど、悟っているとは思えませんがね)
 苦笑いを浮かべるぐらいしかできない。
「ああ、それからもうひとつ、まさかがあるわ。まさか本当に家をリフォームするとは思いませんでしたよ。試しに『そろそろ独り暮らしがきつくてね』と美穂子さんに言ったとたんだもの。吃驚したわよ」
 セツはどこか得意げな――わかりやすく言えば、底意地の悪い顔つきになっていた。昔、ドラマで見た意地悪な婆さんそのままだった。
 そして、『まさか』や『試しに』をまじえたどこかの国の大臣を思わせる数々の問題発言。
 爆弾と好明は密かに呼んでいるのだが、母のこういった爆弾発言で好明は何度、美穂子と喧嘩になったことか。
(相変わらず、性格の悪い婆さんだ。同居したいと言ったも同然じゃないか。それを美穂子は真に受けて)
 心の中でのみ悪態をつき、目を上げた。
「嘘だったんですか」
「いえね、試しに言ってみただけなのよ。わたしとお父さんは同級生だったでしょう。だから静岡には親類や友達がたくさんいるのよね。美穂子さんも知っているから本気にしないだろうと……」
「うちが綺麗になったのは、悪いことじゃありませんからね。ぼくはリフォームして、良かったと思っています。すみませんが、お茶をください」
 馬鹿丁寧に言い、新聞を広げたが、集中できるわけもない。
「念のために伺いますが、お母さんこそ、美穂子になにか言ったんじゃないですか。ぼくは思い当たらないんですよ。あれ以来、浮気もしていませんしね。この家のように美しい人生を歩んできましたから」
 最後の部分に小さな皮肉を込めたが、通じたかどうか。
「また、おまえは、人のせいにして」
 セツ子は三白眼で睨めつける。
「悪い癖ですよ、それも。わたしは美穂子さんに頼まれたとき、ここに来て家事をやりました。友明と美波が無事に大きくなったのは、わたしのお陰とまでは言わないけれど、多少は役に立っていると思いますよ」
 反論すべきではなかったと後悔し、すぐに話を変えた。
「大学時代の友人の高野ですが、憶えていますか」
「え、ああ、高野さん。ひょろりと背の高い人だったでしょう。あんたの友達にしては珍しく優秀だったわよねえ。一流商社に勤めたんでしょう、悠々自適の老後ね」
 あんたの友達にしてはの部分はよけいだが、記憶力抜群だ。ボケる心配はなさそうだが、性格の悪さにいちだんと磨きがかかりそうで先が思いやられる。
「ところが、そうはいかなかったみたいです」
 好明はかいつまんで説明した。もちろん、なにを言われるかわからないので、お見合いパーティに参加したことは口にしなかった。
「まあ、そうなの」
 セツ子は、ふぅっと小さな溜息をつく。
「人の一生は、終わるまでわからないわねえ。生き様は死に様と言うけれど、高野さんは外国や日本の温泉地を旅行して、優雅に暮らすと思っていたのに」
 そのとおりだと、好明は頷き返している。静岡の父親は定年退職した後すぐに逝去した。セツ子に監視され続けたような暮らしに、疲れ果ててしまったのではないだろうか。退職して気がゆるんだのが、いけなかったのかもしれない。
「お母さんは忙しいでしょうから、明日にでも帰っていいですよ。近いうちに美穂子と子供たちを連れて、墓参りに行きます。来てくれて助かりましたが、ぼくも少しずつ家事を憶えなきゃいけないかなと」
「そう、せめて料理ぐらいはできないとね。立派な主夫にならないと、美穂子さんに捨てられますよ。美波の話では、お店の指導員だかになって、バリバリ仕事をこなしているらしいじゃないの。優秀だったのね、美穂子さんは」
 美穂子さんは、の部分がグサリと心に突き刺さった。おれはどうなんだ、おれはと言い返したかったが、もはや反論する気力もなく、愛想笑いを返すにとどめた。
「明日、駅まで送って行きます」
 好明なりに精一杯の嫌味を言ったつもりだが、セツ子は鼻歌まじりに片付け始める。聞こえないふりをしているのか、はたまた聞こえていないのか。持参した箒を手にした姿は、空を飛びそうな気配すらある。
(意地悪婆さんの耳に念仏か)
 散歩しがてらミカンを探そう。
 恋猫のあいつが姿を消したら……好明の運命はどうなることか。美波が告げた不確かな話に縋りつかなければならないほど追い詰められていた。
〝約束した場所で、約束した日に待っているわ〟
 まったく思い出せなかった。

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