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悔恨

 私は負けず嫌いだ。それはとてもとても負けず嫌いだ。
 私は何事も要領良くこなす方だった。今までの人生においても、振り返ってみればそのような場面は多々見受けられる。ただ、それでも出来ないことがあるにはあった。そういう出来ないことに限って、本当の本当に出来ない。特に、歌を歌うことに関しては。
 私は小さい頃から歌うことがとても好きだった。将来は歌を歌って生きていきたいと思っていたし、今でもなんとなくそう思うことがある。
 中学は自転車で通学するレベルの距離があったが、帰り道に大声でいっぱい歌いたかったので、二時間近くかけて登下校をしていた。幸い私の地元は田舎道だったので、それは尚更の事。
 
 
 しかし私はお世辞にも歌が上手いとは言えなかった。それを実感して、色んなことを意識しながら練習をした。しゃがれる程に、声を枯らした。歌が上手い人が妬ましくて、羨ましくて、悔しくて、何より出来ない自分が不甲斐なくて。
 そうしてようやく音程の感覚を掴んだのは、高校二年生の頃の話。全く、これは笑えないレベルである。
 しかし、わずかにも私の道に光が差したことは確かだった。今まで以上に頑張ろうと思えた。ステップアップは何よりも清々しい。誰よりも上手くなって、誰よりも気持ちよく歌ってやろうって、以前よりずっと強く思った。
 なのに気付けば私に取って歌は、日々の生活の二の次に過ぎない存在となっていた。
 私は安定の進路を選んだ。妥協して、安全な道を選んでしまった。かつての憧れに蓋をして、無かった事にしようとした。怖かったのだ。夢に全てを投げ出してしまうことが。
   

 ただ働いて日々を溶かして、時間を無為に過ごして、起伏のないフラットな人生を過ごすという道を、私は捨て切ることが出来なかった。所詮、私は安定を捨て切る狂気に身を委ねることができなかった、どこにでも居るただの凡人だったというわけだ。
 私は負けず嫌いだった。それはとてもとても負けず嫌いだった。そのくせ妥協した。それは臆病な性格の裏返しであり、圧倒的多数に埋もれる庶民である証明となった。その性格が唯一成長させてくれたのは、夢を諦められる大人びた感性のみ。
 同世代が活躍する、私より下の年代の子達が遥かな高みへと昇る。私はその事実にただ嫉妬して、羨望して、それでもそれらの感情が些細に感じるほどの大きな後悔を背負い続けて。
 しかし私しか知らないと思っていたその感情は、道端にいくらでも捨ててあった。

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