陳腐ながらも

「実は浮気されたんだ」

狭いベランダの手すりにもたれ、彼女はそう零した。
 紺色の空は仄かに赤みを帯び、一等星も直に隠れる頃合いである。彼女の持つぬるくなった缶は結露し、愚痴と共に滴っていた。私は開け放った窓際に腰掛け、見上げる様な形で話に耳を傾けた。
 愚痴に始まり旅行先やプレゼントのこと、告白のこと、何故振られたのかなど、色んなことを話した。未来も過去も忘れてただ、この瞬間だけを早朝の空気を肴に語り明かした。次第に彼女の声は震え、いつしか彼女は言葉と共に涙を零していた。何を切っ掛けに泣いたのかは分からない。私の発言が琴線に触れたのかもしれない。しかし私はそのことには触れず、白み始めた空を一瞥した。
 価値観は、人の数だけ存在する。使い古された言葉ではありながら、それは人の在る限り普遍の言葉だ。恋愛という一人以上の行為には、価値観は当然2つ揃う。それはつまり互いの為の妥協の連続であり、いわゆる縛りであり、何より二人の愛が形を成すということだ。しかしこの世界に二人だけ存在するわけではない。私も含め、うんざりする程人は存在するのだ。当然目移りもするし、バレなきゃいいという発想も蛆の様に湧くだろう。それが今回、たまたま明るみに出たというわけだ。
 しかし、私は彼女の前で彼を悪く言うつもりは無かった。彼女は裏切られながらもただ愛しい人を、今なお愛しく想っている。その現実との摩擦に、彼女は泣いている。ただそれだけのことだったからだ。
 話が途切れ一瞬、辺りを静寂が包む。早朝の冷えた風がすれ違い、カーテンの衣擦れの音がやけにうるさく聞こえた。彼女は涙を拭う素振りすら見せず、代わりに私に背を向け陽の昇る地平線の遥か先を俯瞰する。僅かに顔を出した太陽で頬を染め、彼女は残り少ない缶の中身を一気にあおった。

「でもね、すごく楽しかったんだ」

未だ乾かぬ涙の跡をようやく拭い、彼女は満足そうに笑みを浮かべ、話の締めとしてそう付け加えた。
 それだけのことに私は、どこか救われた様な気がした。

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