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無害な善人

気に障ることを言われまくるときって大抵私も相手にとって気に障ることを言いまくっていて、こういう話をすると大体「分かってるなら何でやめないんだよ」と言われてしまい、私がしたかった話からどんどん逸れていってしまう。
言葉が不得手な人も人が傷つくときはやっぱり言葉を介して傷つくことが圧倒的に多く、そのほとんどが「〜〜って言われた」というこの型に当て込める。そして人が傷ついたときってちゃんと「心が傷ついた音」という効果音が鳴る。ほんとに聞こえる。私も人生で何度か私の言葉が他人の心を刺した「心が傷ついた音」をはっきり聞いた印象的な場面があるが、こういう話をすると大体「何で聞こえるのに言っちゃうんだよ」と言われてしまい、私がしたかった話からどんどん逸れていってしまう。
やっぱり言わずにはいられないんだろうな、それくらい私は人に対して気に障ること、傷つくことを人より日常的に言っている。自覚はある。多分私の近くにいる人、仲良くしてくれている人の10人中9人は「たしかにそういうところあるよね」と言うだろう。

気に障ることを言われまくるとき大抵私も相手にとって気に障ることを言いまくっている、それに対してたまには反省してみるもよし、相性が悪いと諦めて距離を取るもよし、正直何でもいいと思う。真に受けすぎればあっという間に病気になれる。だから適当でよい。よいということにする。正直真に受けすぎている人の方がウザいなと思ってしまう。その真っ直ぐな優しさが。ウザい。私は性格が悪い。自覚はある。あるからといって私はブログを書くことをやめない。腹癒せのようにブログを書き続けて10年。昔やっていたアメブロのタイトルは「こんな最低、もうこれで最後にしよう」だったが、何かずっとそんな感じで最低だけど何だかんだ元気でやっている。

気に障ることを言われまくるとき大抵私も相手にとって気に障ることを言いまくっている、しかしその相手と相性が悪いのも事実だ。私の場合、相手が善人であればあるほど相性が悪い気がする。相手が善人の場合、どちらが悪いかというと絶対私になるのでまあ人並みには落ち込むが、落ち込んでも仕方ない。私は今世では絶対に無害な善人にはなれないだろう。10代の頃、一番仲がよかった友人に弱って「人畜無害になりたい…」と言ったら「それはさすがに無理じゃないかな」と言われたことをよく覚えている。たしかに、それはさすがに無理だなと何かすとんと腑に落ちた。
で、この流れでこの話をするのはそれこそ最低なのだが、最近倉敷に行って、ふらっと入った備前焼の店のおじさんが最近までアングラ演劇をやっていた人で、結構面白い人だった。コップを作っている作家について、「無害な善人ですよ。でも三流。いつまでコップなんか作ってんだよ」と言っていたのがよかった。一流はコップなんか作るのは最初のうちだけで花器や茶器を作るらしい。

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