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自己救済と物語

私は私を救済しなければならないというどうしてもという要請があり、でも今の自分にはそんなの到底無理だから、未来の自分が今の自分を救ってくれるんだ、だからここを生き延びたなら、近い将来私は過去の自分を救いにいかなければならない、という"設定"を自ら自ずと考え出したのがおそらく16歳くらいの頃か。「私を救えるのは私だけ」という命題、というか「他者は誰も私を救ってはくれない」という絶望があり、そこからどうしても理屈では到達できなかった辛くても苦しくてもそれでも「生きる」という選択は必然的に外部から与えられる必要があった。
私はずっと死にたかった。生きたかったのだと思うけれど、いくら考えても「生きる」のが正しい選択であると論理的に証明することができなかった(それは今もできない)。しかし生きなければならない、死なない限りは生きるしかないからだ。「生きる」方向でどうにか筋の通った物語を作るために神の代わりに遣わされたのが「未来の私」という概念だったのだが、この七面倒臭い(実に私らしいとも言える)フィクションを私は考え出して以来、10年ほど実践してきた。そしてしばらく前にもうこの物語は役を終えたのではないかと思えた。私はもうすでに救われているし、つまりもうすでに救っている。"設定"がなくてももう生きている限りきっと今の自分を救い今の自分で救われることができる。いやずっと私はできていたのだ。ずっといま救ってきたし、いま救われてきた。光はいつもここにあったのだ。

ひとはあらゆる場面で物語を必要とするけれど、現代においてはその最たる場面が「自己救済」にあるのではないか。自分で自分を救わなければならないとき、あなたは、あなたによるあなたのためのあなたの物語を必要とする。既存の物語の枠に収まりきれないときにこそ、自己救済が必要になるのだとも言えよう。「物語の力」は信じる信じないなどではなく、物語は「力」そのものだ。物語はひとの人生を支配する。ひとは誰しも物語を生きさせられているのだ。私たちは自分の知っている身の回りにある物語の影響を受けてそれを真似るようにして自分の人生を物語り始める。こう書いていていま初めて気づいたのだが、私の「未来の自分に救われ、そのあと過去の自分を救いに行く」という物語はハリーポッターだ、ハリーポッターで読み、観たのだ。「自ら」「自ずと」"設定"を作り出すのにも元ネタがいる。
たくさんの人たちが使い回してきた既存の物語の中で清く貧しく生きられる人は、自分の知っている数少ない物語のなかの登場人物をただ真似ているだけでもいいのかもしれない。けれどその物語のなかにあなたはいないのであれば、もしくはその物語のなかであなたが息苦しさを感じるのであれば、あなたは他の物語を見つけなければならない。だからこそ、物語はいろんな人のいろんな物語が必要なのだ。まだ語られていない人の語られていない物語を、私たちは語っていく必要がある。でも最終的には、あなたの物語はあなたが紡がなければならない。自己救済は絶対ハンドメイドだ。あなたはあなたの物語を他人に語らせてはならない。あなたが語るのだ。光はいつもここにしかない。

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