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信用できない対話と、弱さを守るために必要な強さについて

私が傷ついていることは一言で言い表すことができないし他人に時間をかけて話を聞いてもらってもおそらく私は上手く話せない、仮にかなり上手く話せたと私が思えたとしても相手は理解できないだろう、はっきり言って意味分かんないと思うと思う。私はもうそもそもこのことについて詳細に話すことを本気で望んでいない。そういう成功する確率の低い対話にもう私はリソースを割けないのだ。話すことで救われようなんて弱っているときにそんなリスクの高いことをしたら誤って死にかねない、私はそれくらい対話を信じていない。もう私の悩み事は話し言葉で話せるレベルにないと感じる。いつからだろうか、多分20歳になる前からこうだったと思う。この諦念に関して他人に軽率なことを言われたらそれこそ本当に刺してしまいそうだ。

私はいま書いている。書くことしかできない。言葉を諦めないために、書くことしかできない。言葉を諦めないことは、他者を諦めないことだ。他者を完全に諦めてしまったら言葉を使うことなんてできない。そういう切実さが分からない人間が私に触れようとすることを私は許せない。許せなくて、そのことでとても憤っている。

文字というのは何がいいって、目の前の人に分かってもらえなくてもいつか分かってもらえる可能性があるのがいい。目の前の人が読んで分からなかったとして、他の人が読むかもしれない、その人はもしかしたら分かるかもしれない。文字は常に可能態であり続ける。声は発せられたそのとき意味を持ちその限られた人の記憶に残ることができなかったら今後も意味を持つことはあり得ない。文字は常にそれそのものが記憶であることで可能性を可能性のまま先延ばしにする。文字に対してナイーブすぎるだろうか。でも文字で表現している人間のなかにはこれくらい危うい綱渡りをしている人が結構な数いると思う。私もその一人だ。

私の傷つきはいつも頓珍漢である。というのも他の人はおそらくここではこんなに傷つかないというところで私は勝手に傷ついている。でも傷つくのは私の勝手だ。私には私の勝手で傷つく権利がある。その権利を私は手放すつもりはない。私がその権利のために死んだとしても。

でも死なないために強くなったのだ。死なないままでこういう弱さ柔さ脆さを守るために強くなったのだ。ここで肝要なのは、死なないためだけにこんなにまで強くなったわけじゃないということ。私は弱さ柔さ脆さを守るために強くなったのだ。これのためなら死んだっていい、でも死んだら守れないから強くなった。何のために強くなるのかを、私は忘れない、忘れたくない。そしてこの私の戦いを平気で踏み躙ってしまうような人間が私に触れることを私は絶対に許さない。

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