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ブルトンとナジャの一人二役

自分は人としてあかん、くない。
という証明のためにも恋人をつくりお付き合いというものをちゃんとするべきなのではないか、ということをたまに思ったりする。人とお付き合いができないのって女としてとか男としてとかではなく"人として"問題があるんじゃないかと思うわけだ。まったく今更何を言ってんだという話である。2年ほど前に「あなたは付き合おうって言っても付き合わないでしょ」と言われたのが癇に障り「じゃあ付き合おうよ」と言ってその後一度も会わずに別れたことがあった。ひどい話だ。恋人が4年半いないことよりこのエピソードの方がよっぽど人としてあかんことを証立てている。

しかし、このような関係は、生活を共にしてゆく論理を含んではいなかった。生活を共有するには、互いを理解し合うためのいわば水平の関係の平面が必要だが、彼女は、垂直に舞い上がり、また垂直に落下するだけの存在だったからである。ナジャに負債があるのを知って金銭的援助を与え、抱擁を交わし合っても、「ぼくはもうかなり前からナジャと理解し合えなくなっていた。本当は、それまでだって一度も理解し合えたことなどなかったのかもしれない」。

新宮一成『ラカンの精神分析』

「私はナジャである」と言いたいわけではない。しかし、私も他者と生活を共にしてゆく論理を含んだ関係を結ぶことができないのである。少なくとも今のところ誰ともできていない、できてこなかったのだ。このことが「人としてあかん」のか否かは知らないが、「人としてあかん」と言いたくなる人の気持ちはわからんでない。高校までの学校ではこういった人間は矯正の対象だった。コロナ禍になってやっと、一人で飯も食えないとなるとそれはそれで障害ではないか、という話が出てきているが、コロナ以前はいつも一人でいる人間が異常視されることはあれど、一瞬たりとも一人になれない人間が問題視されることはなかったように思う。

恋愛と生活が切り離されていた頃、恋愛なんぞろくにできなかったのに、やっとこさ少しできそうだ、となったら、今度は生活が邪魔をしてくるようになった。いつの間にか恋愛が生活とほとんど重なってしまう年齢になっていたのだ。なんてつまらないのだろう。もっと恋愛がただの恋愛であった時期に、恋愛というものをしてみたかった。私は急上昇と急下降を繰り返すアトラクションのようなもので、そのため遊園地にはなりえど温泉にはなりえない。つまり不倫相手や浮気相手、一夜のアバンチュールの相手にはなりえど、結婚相手や交際相手、人生のパートナーにはなりえないのである。ナジャはブルトンとだんだんと疎遠になり、なんだかんだあって結局精神病院に入院してしまう。ブルトンはナジャのことを「飽きたから捨てた」とは書いていないが、私は要するにブルトンはナジャを「飽きたから捨てた」んだろと思っている。私はブルトンなしでナジャを生きたい。ブルトンもナジャも私一人で生きたいのだ。

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