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そこに居た君が、君でなくなる前に/SideM雑記

先日Mobage版アイドルマスターSideMのサービス縮小が発表されたことを機に、SideMについて改めて考えるようになった。

このコンテンツに触れてもう3年になるし、まだ3年しか経っていないことに驚く。かなり濃い時間を過ごしたという実感はある。寝ても醒めても、私の世界にはTHE 虎牙道がいた。

楽しいことも悲しいことも、劇的な映画のような波乱万丈さ程ではなくとも日々起こっていて、一喜一憂したり心の底から笑ったり、逃げるように掛け布団を被ったこともあった。そう、結構充実していたのだ。彼らに出会ってからの3年間は。

そして、この日々がまだまだ続いていけばいいなと、ここ数日真面目に思い直すなどしているのである。



ここから先、私はMobage版アイドルマスターSideM(以下モバエム)とアイドルマスターSideM GROWING STARS(以下サイスタ)の話をする。
 どちらかに優劣をつけることはせず、どちらにも良い点悪い点はあるよねという姿勢で話を展開していくが、この時点で嫌な予感がするのであれば、あなたはこのnoteを読むべきではない。ここにあるのは、確実にあなた向けのコンテンツではない。
 そしてもし、ここから先の全文を読んで思うところがあったとしても、頼むからその消化に他人を巻き込まないでほしい。私は私と対話するために文章を書き残し、あなたはそれをたまたま目にしたに過ぎない。
 どうか、人の意見に感化されて無理やり自己を正当化し、何かを攻撃することがないように。




最近のモバエムはかなり面白かった


モバエムのイベントストーリーが面白くなっていると感じたのは、今から一年ほど前のことだった。
 それまでテンプレート化した社会科見学シナリオを繰り返していたイベストの空気が明らかに変わったのが分かった。飛ばしていた担当外のストーリーを追うようになったのも、この辺りからだった。

アイドルの内面に則した描写の丁寧さは、間違いなくモバエムの売りだった。シナリオを読むごとに彼らの内面に触れられた実感があって、それが楽しかった。担当P曰く、それは氷山の一角だそうだが……。

このソシャゲ戦国時代において、情報を小出しにする利点はあまりないのではと思っていた。
 それは最初から家族構成が分かっていたり、早いうちから内面の不安定さを見せることで、キャラクターへの取っ掛かりが増え、売り出しやすい人間になると考えていたからだ。
 だからこそモバエムの、サービス開始から8年経って全く知らなかった話を聞けることの貴重さを感じられた。どちらが良い悪いではなく、しかし好みで言えば、私はこのゲームの「全てを知らずとも共存はできる」「ある程度の関係性を経て初めて知る事柄もある」というシナリオ展開からある種のリアリティを感じ楽しんでいた。

まあ、46ヶ月以上掛けてアイドル一人一人の新規エピソードを追加する更新スケジュールは今思うとパンク過ぎるなと思うのだが……。

たった三年でもかなり濃密な時間を過ごすことができて、結構冗談抜きに日夜彼らのことを考えて過ごしていたし、それは今度のイベントは何処まで走ろうかなというゲームシステム的な面から、こういう場面では彼らはどんな表情で何を言うんだろうというキャラクター考察な面まで幅広かった。つまるところ、私はSideMに人生を救われていないが、私の人生はあの日たまたま目にしたMVをキッカケに偶然SideMによって豊かになっていった訳だ。そしてそれを、最終的には良い事だったなと思っているし、これからも思い続けたい。




人間を描写するコンテンツに求めること


マジで意味がわからないと思うが、私はこれから「ダンガンロンパV3」の顛末について話す。
 SideMのキャラクター描写について話す上で意味のある構成ではあるのだが、そもそもダンガンロンパ自体製作者が「命懸けで生きる彼らを、僕らもまた命懸けで描写する」と言うくらい人間描写に熱の入った作品であり、それがストーリーの根幹に深く関わっている。
 何を言っているか分からないと思うが、この先を読む前によかったらダンガンロンパ1,2,V3を履修してもらえると、この先の文も一層実感を持って楽しめるかもしれない。
 ネタバレするけど5年前のゲームということで時効としてほしい。何のnoteだよここは。


5年前、私はある期待を持ってダンガンロンパV3を手に取った。
 このゲームは当時ダンガンロンパシリーズの最新作としてリリースされ、前二作の濃厚な心理描写と、一枚岩ではない複雑かつ残酷な心打つ展開で多くの人を魅了していた。だから今回も、胸の内に一筋縄ではいかない情念を携えた高校生たちが、互いの信念を胸にコロシアイという非日常に巻き込まれ堕ちていく様を見られるのだと高揚しながらゲームを購入した訳だ。
(申し訳ないが、私はこういったコンテンツに対する自身の悪意に自覚的である。)


一章では最早ミステリーの王道とも言われる叙述トリックが使われ、二章では記憶喪失の彼らにシリーズ恒例の動機が通達される。コロシアイなんてと足踏みする高校生たちに、ゲームマスターは「コロシアイを制して外へ出なければならない動機(=記憶)」を知らせることで、彼らは一様に揺らぎ、自分がすべき事は何なのかと思いを巡らせる。(実際は妨害によって動機が録画されたテープはごちゃ混ぜにされてしまったが……)

私は二章の事件がとても好きだ。何の因果か自分の動機を知ってしまった事で「何としてでもここを出て愛する国民の無事を確かめなければ」と奮い立つ犯人と、何か一つ生きる希望があればと縋った動機ビデオに「あなたには何一つ守るべきものはなく、誰一人として帰りを待つものはいない」と戦う意味がないことを突きつけられた被害者が、互いの人生を天秤にかけ、お互いに納得して命を奪い奪われる展開は、今でも思い返すと心を締め付けられる。
 殺人という常軌を逸した行動を正気のまま人生の糧にしてしまう犯人のおぞましいまでの執念と、後にも先にも自分を肯定してくれる存在は居らず、そんな自分を自分でさえ肯定できなかった彼が見た唯一自分を肯定できる選択肢の残酷さの対比が、私は大好きで、悲しくて、心を動かされたのである。

そうして物語は三章、四章と進み、理解の有無に関係なく己の人生や価値観、信念で動く彼らの人間性をまざまざと見せつけられ、私は情緒を掻き乱されながらゲームを進めていった。

五章ではなんと、「ゲームマスターが観測できない場所で事件を起こし、真偽不明な状態でゲームマスターに裁判の結果が真実か否かを判断させることで、誤った判断を下させてゲームの公正性を破綻させる」という意図の事件が発生する。
 終始犯人と被害者の想定が入れ替わり、何が本当で何が嘘かも分からないまま当事者以外で議論が進んでいくこの章は、正しく正反対だった当事者二人が生きてきた人生をベースに彼らが感じ、考え、願ってきた勝利を目指した結果だった。
 最終的に真実に辿り着くもののゲームマスターが刑を下す前に犯人は持病によって命を落とし、参加者からは「僕たちはオマエに負けていない」とまで言われてしまう。全てを意のままにし、彼らの命を弄んできたゲームマスターに、彼らは一矢報いて絶命した。

が、なんと最終章である六章で、彼らの存在は全てフィクションだと明かされる。


犯人が命懸けで守ろうとした国民という事実も存在しなければ、そもそも参加者は超高校級の才能の持ち主でも何でもない。どこまで抗ったところで彼らのコロシアイは視聴者の消費物でしかなく、そんなイカれた人間の中から自ら志願して命を投げ出した倒錯者こそが、コロシアイ参加者の真実の姿だと宣告されたのだ。

心の底から恐ろしいと思ったし、凄まじい喪失感に襲われた。彼らが信じてきた自分も、踏み躙られた被害者も、何もかもが嘘で最初から存在しなかった。彼らが本気で生きてきた全てが消費される為だけの陳腐な文字列でしかないと言われたことがあまりにもショックで、私は「彼らを片手間に消費する視聴者」ではなく、「消費される前提で(前作含むシリーズの)彼らを作り出した製作者」に対する落胆でめちゃくちゃになってしまった。

その後制作チームがどれだけ真摯に彼らの生き様を描写したかを数年越しに知り、私の中の落胆は姿を変えることができた。知るって大事だ。



私には友人やキャラにされると嫌なことがいくつかあって、

・根拠なく貶められること
・安易な偏見で人となりを固定されること
・成果を横取りされること
・生みの親に存在を軽視されること

が自分がされるよりも嫌で堪らない。


一目見ただけでは分からない、けれどよくよく注視すれば理解できる範疇にある事柄に配慮しないデリカシーの欠けた発言や行動が許せないのだと思う。
 まあ実際の人間関係ってそういう配慮の至らなさでズレが生じていくものだし、私もその当事者になったことはあるだろうが……。


でもその中でも特に悲しい気持ちになるのが生みの親に否定されている姿を見ることで、キャラクターコンテンツにおいて公の場では一ブランドとして大切にしたいと言っておいて実際はユニット曲も出ないとか、同じ名前同じ顔同じ人間としてブランディングしておきながら中身の描写は各アプリで全く違うとか、私にとってはそういう事だったりする。




何もかも同じであれとは言いたくない


モバエムの間を持たせたリアリティのある描写に比べて、サイスタの描写はいくらか展開が早い。開催できるイベントの回数や尺的にも、あまりのんべんだらりと語っていては進展が望めないという事だろう。
 だからこそ一つのストーリーに盛り込みたい要素が尺に合っておらず、私には妙に突飛に思えたり、取ってつけたような感覚に陥ることが多々ある。

まあでも、それは長い間続けるつもりであのスタンスを取ったモバエムと、(恐らく)モバエムの更新停止を見越して新情報をコンスタントに出していく方針に舵を切ったサイスタの違いなのだろう。これは多分好みの問題だ。サイスタの展開スピードを否定する気は毛頭ない。むしろこのくらいが今のソシャゲらしいかもしれない……。

本当に受け付けないのは、同じ人間だとしていながら、その根幹が揺らぐ発言を平気でさせる所だ。

メインストーリー2章第5話ストーリー04より引用
同上より引用

これを見た時、喉に魚の小骨が引っかかったような違和感を覚え、その違和感がじわじわと広がっていくような感覚がした。

円城寺道流はTHE 虎牙道において所謂保護者ポジションではあったが、それを自称したことはなかったと思う。少なくともカード台詞にはなかった。兄貴分という立場に自分を置いて、戦国村の一件を迎えるまでは二人のサポーターであることに重きを置いていた節があったし、それが自分の性分だと認識していた。

更に言うと、彼はとても聡く、人との距離感の保ち方が絶妙で、一人で抱え込んでしまうタケル相手には親身に寄り添い話を聞き、逆に詮索を嫌う漣相手には少し離れた場所で見守り敢えて距離をとる事ができる人だ。

だからメインストーリーを読んだ時、どうしても「あれ?」と思ってしまった。

保護者であることを前面に押し出すような図々しさと、少しトゲのある言い回しに含みを感じてしまった。

このシーンのタケルの顔を見ていると、気まずそうな顔が驚いた顔にシフトしていく。彼の性格から思うに、この一見軽い冗談を「そんなに迷惑に思われていたのか」と真面目に受け取りかねない。

私は、そういう一言から派生する些細な不安や誤解に対するアンテナが円城寺道流は非常に高いと思っていただけに、「え、それ言うの……?」という気持ちになったのだと思う。

解釈違いというのは違う。多分解釈が違うわけじゃない。もっと根本的に違う。ここにいるのは私が好きになった円城寺道流ではないのかもしれない。そういう気持ちになった。

「Know.Only.」プロローグより引用
同上より引用


だから私は、得意不得意に関わらず最上の結果を出す努力を怠らない大河タケルが、自分の苦手分野を棚に上げて未練がましくごちる姿も、
そんなタケルに一度負けている牙崎漣がここにいることも何となく嫌で、
これが私が好きになった二人だとは思いたくなかったのだ。




そうは言ってもモバエムは前時代的すぎる

ここまで散々モバエムが好きだみたいな言い方をしていて心苦しいが、ぶっちゃけキャラクター描写以外に関してはサイスタの方が余程今の時代に合っている。まあ他のビッグタイトルに追いついているとは言わないけど……。

期間限定イベントガシャが有償でしか引けないとか、他ユーザーと密にやり取りをしてトレードしないと以前のカードを手に入れるのは難しいとか、2014年始動のTCGベースなソーシャルゲームではいくら描写が魅力的でも新規参入のハードルが高い。こういうシステムが性に合って、キャラクター描写に感銘を受けた人間だけが続けられる、あまりにも間口の狭いゲームだったことは否めないと思っている。

その点サイスタは課金しなくても(運に左右されるが)好きなカードは概ね手に入るし、基本的にはランキング要素が排されていてマイペースに走れるし、好きな曲で音ゲーしたり踊ってる所が見られて、ホーム画面では喋って動いてくれて、同僚(フレンド)要素も非常にフラット。一度スコアAクリアさえすればオートライブが無制限にできて、最近はST(体力)上限も200まで解放された。
 ぶっちゃけモバエムより触れやすいのはマジなのである。余程音ゲーが苦手な場合はその限りではないが……。


だからこそ、私はサイスタにこそキャラクター描写に心血を注いでほしいと切に願う。


安易なキャラクター性に対して「それだけではない多様な人間性」を明示し続けるSideM、ひいてはアイドルマスターシリーズに、今までの描写過程を放棄して無理やり短い尺に全てを込めようとしたり、その為に前段階を端折ったりしてほしくない。


アイドルマスターという「人間を描写するコンテンツ」には、これまでのように、これからも、彼ら彼女らが「何を思い、何を願い、何を見据えて生きるのか」を丁寧に描写してもらいたい。
 もしかしたらそれは大それた願いで、息付く間もなくサービスを閉じるコンテンツを見ていた人間からすればなんと傲慢かと思われるかもしれない。


だからこれはもう願いでしかなく、叶わなくても仕方ないと思っていて、それでも叶ってほしい。何故なら私はこのコンテンツの人間描写に見せられてこの8年を過ごしていたのだから。


いつか終わりが来るのなら、その時全てが明かされていなかったとしても、彼らがそれまでの時を生きてきた事が嘘偽りなく真摯に描写されていてほしい。そしてこれからも変わらず、その過去を抱いて歩んでくれることを指し示してほしい。


モバエムのサービス縮小を聞いて私が感じたのはそれで、そしてここ一年のモバエムはその願いを叶えてくれた。その結果は、モバエムの制作チームが彼らに正面から向き合っていたから生まれたものだと思いたい。


結局、私の大好きなものを作った人が、私の大好きなものを大好きでいてくれた。そういう思いを感じ取れるのが一番嬉しくて満たされる。THE 虎牙道は、315プロは、製作者に望まれて産まれてきて、愛されて生きていたと思えたら、涙が出るほど嬉しいのだ。それならきっと、彼らは自分が生まれてきてよかったと思える。フィクション内に彼らを愛する親類がいることと同列に、製作者という生みの親に愛されていてほしいと思う。少し身勝手な話かもしれないが……。



あぁでも、やっぱり好きだ。

無人島に遭難しておいてバカでかい貝を抱えながら「これイスにもなりそうだな」と呑気なことを抜かす大河タケルも、

師走の忙しい時に「師匠が走る!なんて」とダジャレをかまして二人に神妙な反応を返され答えに窮してしまう円城寺道流も、

裸同然の衣装を来ていながら上裸の人間に「裸じゃさみーだろ」と正論を翳し突然ハシゴを外してくる牙崎漣も、

それぞれ孤独に戦っていた少年に安心できる人間が出来てそんな発言ができること、

責任感に追われて生きた彼が和やかな時間を過ごせるようになったこと、

破天荒に生きているように見えて彼が案外普通の価値観を他人に適用して生きていることを知って見返すと味わい深くて、


こういう何でもないクスッと来る台詞にもそれぞれの人生が反映されていることを感じられるモバエムのシナリオが大好きだ。







有償闇鍋ガシャだけは絶対許さないけどな。



(終)

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