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Reviews(artissue/2017)

コンセプチュアルな『マクベス』読解と、小ネタによる笑いがもたらす幅 

藤原央登 劇評家 
開幕ペナントレース『あしたの魔女ョー[或いはRocky Macbeth]』
2017年8月16日(水) ~ 27日(日) 会場 小劇場 楽園

本作は『マクベス』を自らのフィールドに引き寄せて遊びながらも、実質60分ほどの上演時間であらすじをしっかりと観客に理解させる。その上で、権力と名誉に突き動かされた人間のあくなき欲望を浮かび上がらせた。
  シェイクスピア劇の新演出や本歌取りした作品は星の数ほどあり、今後も産まれ続けることだろう。それによってシェイクスピア劇の上演史は厚みを増し、古典としての権威が高まってゆく。一方で、ハイペースで作品が創られるあまり、個々の上演は上演史の突端に一過的に位置しては、すぐさま埋もれるという憂き目にあう。本作もその流れには抗せないかもしれない。だが、2月の初演から半年経って早くも再演されたことで、この作品の構造とユニークさに改めて感心した。私にとっては、『マクベス』の「特異な名作」として、記憶に刻まれたのである。
  スコットランドのコーダーの領主になり、やがては王になると3人の魔女から予言されたマクベス。予言を実行するべく、マクベスは妻と共謀してダンカン王を殺害して国王になる。さらに、魔女がマクベスの親友・バンクォーの子孫が王になるとも予言していたことから、バンクォー親子の暗殺も計画する。言葉の魔力に突き動かされたマクベスによる、飽くなき権力への志向。そのことを、タイトルマッチに挑むボクサーになぞらえること。これが、開幕ペナントレースによる『マクベス』読解の最大の趣向である。負けられない戦いがそこにはあるというやつだ。

  ボクサーにはリングが必要である。リングを表現した舞台美術が、とりわけこの作品の秀逸さを伝える。舞台空間を2方向からL字型に挟むように設置された客席。その前方にはロープが張られている。ロープで四角に仕切られた演技エリアの中に、白いリングが設置されている。リングの上面は開閉式になっており、フタのように開かれると、その裏にセリフの英語字幕やパフォーマーが演じる魔女の予言、鯉の映像などが映される。また容器のようになったリング下部からは、殺害されたバンクォーの亡霊が出現する。「桜の森の満開の下」のごとく、リングの下には戦いに敗れてマットに沈んだ、数多くの死者が埋まっていることを連想させる。
  リングには当然、コーナーポストがある。インターバルで使用する椅子と共にミニチュアで作られているが、それは1セットだけである。これに対応するもう1セット、すなわちマクベス用のコーナーポストと椅子がリングにない。それらはリングの外に用意されている。劇場内にある太い柱をコーナーポストに見立て、その前にパイプ椅子が置かれているのだ。ここを中心にして、パフォーマー(高崎拓郎)はマクベスを演じる。その様が、タイトルを賭けた試合に望むボクサーの重圧や苦悩と、それでも王座を勝ち取ろうとするボクサーの心情に重ね合わされている。
  ミニチュアのコーナーポストと柱のコーナーポストの関係性は、正方形のリングをさらなる正方形の舞台空間が内包するような、入れ子の構造を成している。数学でいえば、辺と角の比が等しい相似形を成すような格好である。この舞台美術と舞台空間が織り成す関係が、創り手が『マクベス』をいかに読んだのかを余すところなく伝える。数多くの為政者による権力奪取の物語は、権力欲に取り憑かれているという意味で同類であり、それはすなわち自己鏡像の連鎖でしかないということだ。そのことを、相似形の舞台空間そのものが語っている。相手選手がいないミニチュアのコーナーポストに対峙するボクサー=マクベスは、一体誰と戦おうとしているのか。見えない敵と虚しい空中戦を行っているようにしか見えないのだ。権力と名誉欲に突き動かされて空虚な戦いを強いられ、自己破壊した者たち。それがリング下に埋まった死体なのだ。
  ラストシーン。ダンシネンの森の枝を頭につけて攻めてきたマクダフを前にして、本作でのマクベスは自らリングを降りる選択をする。だが、たとえこのマクベスが降りたとしても、次に王座を狙って新たなマクベスがやってくるだろう。マットの下に潜ったパフォーマーたちが、タイツ生地になった上面に顔を押し付けながら「マクベスくる時、マットが動く」と述べる。マットをうごめく死者たちの言葉は、権力を志向する者を誘惑し、戦わずにはいられなくさせる魔法をかけ続けているのだ。
  以上が、創り手が解釈した『マクベス』の骨子である。短い時間で『マクベス』を理解させる構成力にも表れているように、劇の核心の提示は非常に明解だ。それを、舞台美術と共振させてコンセプチュアルに提示しているために、より説得力がある。本作の最大の魅力はそこにあることは間違いない。だが、それらを担うパフォーマーと様々に仕組まれた笑いを生み出すネタの数々もまた見所である。スタイリッシュな劇構造と、それに反するような各種の遊び。両極端の要素が詰まっている点が、開幕ペナントレースの作風の特徴である。代表作『ROMEO and TOILET』(2009年ニューヨーク初演)にもその様は読み取れる(ウェブサイト『シアターアーツ』の拙稿「「奇跡のうんこ」をひねり出すために」参照。→Link)。
 
  一見して了解できるように、開幕ペナントレースのパフォーマーたちは一見したところ奇異な風貌だ。パフォーマーは頭まですっぽりと覆い、顔だけ出した白の全身タイツを着用する。露わになった身体のラインは、決して鍛え上げられたスマートなものではない。どっしりとした重量級、悪く言えばだらしのない中年の体つきである。とはいえ原色の照明が良く映える白の全身タイツは、パフォーマーをコミカルで愛すべきキャラクターにさせる。オヤジのむさくるしさを中和して愛くるしさへと変換する効果があるのだ。そんなオヤジたちが汗をかきながら舞台空間を駆け回り、高いテンションでがなり立てながら繰り出す小ネタの連続は、この集団を語る上で欠かせない要素である。
  目に付いた小ネタを挙げよう。第2幕、マクベス婦人(森田祐吏)と共にダンカンの殺害を計画するシーン。上面が開けられたリングの傍に2人のパフォーマーが座る。投影された映像が示す通り、リングはここでは、大量の鯉が泳ぐ池のようだ。パフォーマーはそこにエサをやりながら、妻の成すべき役割について語らう。鯉=恋ともかかっているのだろう。そこで、妻は夫が将軍になるために尽くすべきだとの結論が出される。登竜門の語源にもあるように―黄河上流の竜門を登りきった鯉は龍になるという言い伝え―、鯉が龍になることを手助けすべきだというのだ。ここでの語らいで、マクベス婦人はダンカンの殺害を決意する。
  王の座を手に入れたマクベスが酒宴を開く第3幕。マクベスがバンクォーの亡霊を見て錯乱するシーン。ここでは、鯉のタイツを全身に着用したG.K.Masayukiがリング下から現れる。全身タイツによって手足が拘束されているためリングをジャンプで飛び越えなければならない。そしてテンション高くわめいてマクベスを責め立てる。彼は龍になれず鯉のままで死んだバンクォー。マクベスが正気を取り戻すと鯉はリング下に戻る。だが、マクベスが再び幻聴を聞くと再び、鯉になったバンクォーの亡霊が飛び出してわめきたてる。何度も執拗にこれを繰り返す内にしだい疲れ、よたよたとしてくるG.K.Masayukiが可笑しい。8人の王とバンクォーの亡霊を幻視する第4幕では、G.K.Masayukiが公演のオリジナルTシャツを吊り下げて登場する。王に見立てられた8枚のTシャツは、漫画家・しりあがり寿によるデザイン。『マクベス』のシーンを利用して、Tシャツの宣伝を行う趣向だ。他、マクベスがバンクォーと共に魔女の予言を聞いた後、コーナーポストにも使われる柱で、高崎とG.K.Masayukiがツッパリの練習を行うシーンも印象深い。ここでの彼らは、北の湖と千代の富士。ささいなシーンではあるが、王座を求めるのは為政者だけでなく、ボクサー、力士、戦国武将等々、勝ち負けの世界で生きる古今東西の多くの人間に共通した心性であることが示唆される。このように、わずか60分ほどの『マクベス』劇の中に、種々の遊びが散りばめられている。
  最大のネタは、ヘルメットを被った高崎と森田が胡坐で向かい合い、手にした英語版の戯曲を読むシーンだ。その後のシーン展開から、マクダフに関する部分の朗読だと思われる。件のシーンの前段で、「マンモスウエスト」なる人物が率いるパラシュート部隊が、マクベスに戦いを挑んでくる、と高崎から説明される。『あしたのジョー』には、主人公・ジョーが送られた少年鑑別所で、ボスとして君臨していた巨漢の男・西寛一がいた。新入りのジョーにリンチを加えるなど当初は敵役であったが、少年院を退院して「マンモス西」のリングネームでデビューした後は、ジョーの親友として、そしてセコンドとして支え続けた人物だ。「マンモスウエスト」とは「マンモス西」のことであり、さらにマクダフに重ねられているわけだが、記憶ではここまで丁寧な説明は初演にはなかったように思う。このような解説が入ったことで、本作がボクシングを大枠にしていることと、タイトルが『あしたの魔ジョー』である理由がより明確となった。また、マンモス西が後にジョーの親友になるということは、敵の自己同一化と、それによる相手の見えなさという本作のコンセプトにも通じる。バトル系のビルドゥングスロマン(成長物語)は、次々に強敵と対峙しながら成長する主人公を描く。だが多くの少年漫画がそうであるように、無用に引き伸ばされる物語は、主人公に果てしのない戦いを強いる。本当の敵は一体どこにいて、どれだけ倒せば戦い=物語は終わるのかが分からなくなってくる。『マクベス』の骨格が、身近に溢れるサブカルチャーと親和性があることを示しているようだ。
  さて件のシーンである。2人のパフォーマーが戯曲を朗読している最中に、高崎の頭上に設置されたパイプから小石が大量に降り注ぐ。この小石が、パラシュート部隊による攻撃に見立てられている。ヘルメットに当たった小石の跳ね返り方によっては、森田の顔をたびたび直撃。朗読どころではなくなる。大量の小石は、パイプの入口にスタンバイしたスタッフによって、2Lのペットボトルから間断なく投入されていたのである。投入するタイミングが良ければ、小石の流れは加速度を増し、パイプの中をものすごい音を立てて流れ、一気に高崎の頭に降り注がれる。当然、森田は小石による猛攻撃を受けることになる。このシーンもしつこく続けられるのだが、多少のハラハラ感と共に、くだらなさの極地を見せつけられて、笑うしかない。ここに、開幕ペナントレースのエンターテイメント性の集約点がある。 

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