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『私小説(オートエスノグラフィックな何か 10)』

失恋した相手に、数ヶ月経ってまた会えるようになった途端、2週連続で会いに行ってしまっていて、友だち関係を続けようとする彼女と、どうにかなりたいと思っているかは、さておき、Tジェルを開始してしばらく経ったので、いろんな気持ちに性的な衝動がミックスされて、それもあって、かなりのスピードで精神的なトランジションしてるみたいですね。

身体違和からは、これまで解離してたろうと思いますし、昔から、自分の恋愛の話をできる相手にすると、一人称がオレになってるのにも、ずっと自分でやれやれと思ってたんですが、そういうのの辻褄が、どんどん合っていくので、それなりにしんどくなってると思います。

「男性化する」のは、可能なら拒否したかったんでしょうし、しかし、かなりのそういう人が、それでも結果的に男性化を選択するのも、間近で見てたと思います。

可能なら拒否したかったのは、私の場合、自分のなりたい姿が、自分にとって不本意だったから、ですね。私の中身は、戦闘派の、かなり過激なフェミニストなので。しかも、そういう私みたいな存在は、トランスの歴史上、あるあるです。

クイアな男性的な何かを目指すとしても、ノンケにはヘテオにしか見えないと、私が信じてるゲイって沢山いるし、両目でウインクしてくる、彼らはめちゃカッコいいと思うけど、ああいうふうになれるかというと、身体の大きさとか、骨格とかで、叶わないと思い、それが辛い。男性化しても、フェイクにしかならない、それは敢えてフェイクにするのとは、全く違う、と思っていて、それ自体も、また極めてトランス的なので、嫌なんだと思います。

ジェンダーバイナリーが嫌で、それから逃れたいのもあって日本から逃げたのに、結局はバイナリーに収まる外見になりたいとか、そういう自分のトランスとしての王道っぷりが、過激なフェミニストとして、許せないんだと思います。

男性化自体は上等、と思うくらいには、私はラディカルなフェミニストなのですけど、規範的な男性的外見から、なりたい外見を、ちょっともずらせないんかよ、と思って、自分にがっかりしてしまってるんだと思います。

(ラディカルフェミニストって、私の中ではそういう存在です。別稿で書いたトランスセクショナリティを推奨した江原由美子は、ラディカルフェミニストを名乗ってましたし。彼女の本のタイトルにもある通り。いつのまにか、世の中では全く違う使われ方に変容してしまっているので、私のラディカルフェミニストアイデンティティはどうしてくれるねん、って感じです。)

それで皆んなまた、フェミニスト出身の同類はこういう類の本や研究書を書いて出版しがちだし、名前を変えて、研究者やアクティビストを続けたりするから、次の本を出す前に、名前を何に変えようかと思ってたところだし、ほんとに、お前、そのまんまなのかよって、思わざるを得ないです。

まぁ、エルダーになってからも、皆んな男に見えるようになったままで良いかと、模索し続けてるみたいだから、この先どうなるかは、全員の課題でしょう。

いやはや、素晴らしきトランスメンスカラーの人生。

(日本のBuddyへ宛てて)

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