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『尊厳死について』

尊厳死について聞かれると、躊躇しながら、しかし賛成と答える。

もちろん、障害者差別との関連を考えなくてはならない、というのは分かる。しかし、差別によって障害者が殺されるかもしれないのは、それ自体の差別問題として考えるのでは、足りないのだろうか。

加えて、私はいつも必ず、一律に判断するのではない、個別の丁寧なケース対応を求めている。

私は、例えば、植物人間になって、ただ生きているだけで良いというのは、死なれる側のエゴだと私は思っている。

私が自分で死ぬ権利を確保したいと思うのは、意識がなくても生きていて欲しい誰かの欲望によって生かされたくない、と思うからだし、私は自分のありたい在り方で生きられないなら、死んだ方がマシだと思っているからだ。

そう思うのは、私がトランスだからだと思うし、そういう私が、私自身をトランスがありたい姿で生きることが出来る社会を求める社会学者たらしめている、と思う。

しかし、もう一方で、私は現実的で、科学者であるので、研究者としては、現状把握にのみ努めてきた。基本的には、その指針を変更するつもりはない。これは、既に書いた通りである。

自分について書き始めてから、行間が全くなく、息をきちんとしていないのが分かる、と言われてきた。そろそろ、どうだろうか。


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