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言語化

日本にはプロセシングという考え方は普及していないけれど、類似の考え方として、ストーリーテリングとかナラティブセラピーなどという言い方が、学術的には、なされているのかもしれないと思った。(この観点から、再読などして要確認だが。) しかし、それらは、日常用語ではない。日常的に用いられている類似の考え方はないのだろうかと思って探していたが、もしかしたら「言語化」だろうか。

私の日常用語の感覚は、かなり学術用語に引きずられてしまっているので、そんなカタイことば、普段使わないと言われてしまうかもしれないけれど、上にあげたような横文字よりは、マシかも?

言語化がそれっぽいと思ったのは、自分のnoteでの昨日の「つぶやき」を見直して。

「何だか、私は自分が女に生まれて、本当に不本意で、悔しくて、悲しいけれど、そう思うと辛いから、感じたり、考えたり、意識が向いたりしないようにブロックしてるんだな、と気がつき、そのことを思って、泣けてくる。」

自分で、こういうことを書いたのは/言ったのは、つまり自分の気持ちを「言語化」したのは、あるいは出来たのは、初めてだな、頑張ったな、よくやったな自分と、読み直し、自分で思った。

口に出すのが怖いこと、文章にするのが怖いこと、というのは私にはたくさんあり、それをやって行くこと、あるいは、もやもやして何と言ったらいいか分からないような気持ちに、ことばを与えていくこと、それらは、両方、プロセシングと言われている作業に相当すると思う。もちろん、それが全てではないが、一つの側面として。

引用本文では「気がつき」と書いてあるけれど、その事態に気がついたのではなく、そういう言い方ができると気がついた、という意味で、上で説明した「怖いことを文章にする」のと「もやもやした気持ちにのとばを与える」ことの両方をしていて、それはプロセスの結果であり、プロセスという作業そのものだ、と思う。

次の博論では、この作業をコミュニティのメンバーと共同でやっていくが(既にやっているが)それをパラエスノグラフィの一つの書き方として位置付け、そのセラピーとしての効果を、パラエスノグラフィを書く目的とする、ということに再設定した。

それで、メインのスーパーバイザーが、ソーシャルワーカーに変更になる予定。

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