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『日本のアイデンティティポリティクス(試論「(ジェンダー)アイデンティティとは何か」再考 4)』

1.プロローグ

黒人の文化を白人など他の人種や民族が盗用して、利益を得る事。それを、アプロプリエーションと一般的に呼ぶ。私のドラァグのパフォーマンスにも、時期的にも地域的にも避けられない事情があり、適用されることになった。

しかし、なぜ私がヒップホップなど、ブラックミュージックをパフォーマンスに使いたいかには、正当な理由があり、それを説明可能だと私は思った。それは自分がアイヌであり、女性として日本で育ったことに起因している。

そうは言っても、その説明は、かなりの量になるし、説明するのも時間がかかる。そこで、英語で短めの文章を書き、Instagramのストーリーに投稿を始めた。その理由の説明が、またそこでなされたディスカッションが、まさに私の、不確かでしかなかったアイヌのアイデンティティを確かなものにした、と思う。また、自分がアイヌとしてのアイデンティティをしっかりと持てるようになって、日本の人たちにも、自分のした経験を話し始められていると思う。これについては、別に書くことにする。長くなるので、この文章では、アイデンティティとそれをめぐる政治に関する見立てだけを述べる。

(すでに、noteにも、Ainu First Nation Transmascnonbinary Monologueというタイトルのものを3つ上げている。)


2.アイデンティティ

人はアイデンティティの束だったとしても、その一つ一つのアイデンティティを同じ強度で持っているかは、また別の話だ。たとえ被差別側のものであったとしても、そのアイデンティティのもとになる属性を持っているのと、アイデンティティ自体を持つことは、決定的に異なると思う。そういう風に考えると、いろいろな状況に見通しが立ちやすくなる。

つまり、端的に述べるなら、こういうことだ。自分の属性を理由に、自分にとって不当だと思うことに対し、異議申し立てしようとして、苦闘し、理由を言語化して、相手に自分のクレイムが正当だと説明しようと格闘することで、そのアイデンティティは確固としたものになる。自分の出自に誇りを持つとは、その闘いと、それによるアイデンティティの獲得を経て、可能になる。

重要なので繰り返す。もちろん、人は誰でも、アイデンティティのもとになる属性を持っている。しかし、それだけでは、アイデンティティ自体を持つことにはならない。そういう意味で、かつて書いたように、「アイデンティティとは、もともと持っているかと聞かれると、もちろん持っていると答える類のもの」である。

3.アイデンティティ・ポリティクス

アイデンティティの元となる属性からアイデンティティを育てる行為こそが、クレイム申立て、すなわち社会問題が今ここで起きている、という指摘である。

日本では、自分のアイデンティティを理由に不当性を訴える機会を、皆んなが持っているわけではないし、持ちたいと思っても持つのが難しい。そのようにする権利(とすら考えられていないが)を行使すると、まずは、がんがんに叩かれるからである。

それが何故かを次のように私は見立てる。

日本は、人びとを均一であるよう調整するために、マージナルな存在が、偏った形で、恐ろしいほど我慢させられている。しかし、それを解決しようとすると、実は、ほとんど全員がさせられている我慢が炸裂して、全体が壊れてしまう。そのため、成員たち自身によって、出る杭を打ち、均一化を維持しようさせ、またプリビリッジ・チャンピオンシップを常に引き起こさせる事で、自分たちの首を絞め合わせさせる。それが、日本に住む人びとに我慢をさせ、均一な存在のままに、自らさせておく仕組みである。

4.インターセクショナリティ

私はインターセクショナリティについて考えるのを、つまりトランスでアイヌの自分について考えるのを、98年に一旦諦めて、トランスジェンダー研究に専念することにした。日本で、私のようなテリトリー外のアイヌは、「見えない存在であるだけでなく、いない事になっている」。そのような存在のさせられ方が、まさしく不当なのは、もちろんである。2023年の元旦まで、私は自分がアイヌであることを、すっかり忘れていた。しかし、カミングアウトしてみたら、泥酔すると皆に話していたと教えられた。

これは、どういうことか。日本は、あまりに差別的すぎて、インターセクショナリティを経験すること自体、不可能だった、ということであり、ディソシエーションによって、脳が辛すぎる経験から、私のことを守ってくれていた、ということである。

日本には、民族的に少数で、かつジェンダーダイバースな存在の居場所は、今でもなさそうだ。加えて、私は発達特性も強い。日本では、マージナルなせいで負の経験をしやすく、その効果で容易に精神疾患にカテゴライズされて、余計に周辺に追いやられる存在だ。多くの先進国では、そのこと自体が差別だとされているのにもかかわらず。

一方、カナダの西海岸の都市部では、そのようなマルティプル・アイデンティティを持つ存在であるのは、ごくありふれた事だ。また、そのような存在として、自分の権利を行使しようとし、その理由を述べるのは、それが通るか通らないかは別にしろ、極めて正当なことだ。今回の私の主張に対しても、返ってくる意見も多様である。そんな中で、私が最終的にどうするかは、自分の正義に聞いて、自分で決めるしかない。そうアドバイスされる。何故なら、人は皆、違うから、である。


5.共生

そういう風に自分の正当性を主張しつつ、あるいは、いつでもそうする機会を持ちながら、しかし、全員の意見は通せないので、みんな少しずつ、何かを我慢している。そうすることで、他者や状況自体を尊重している。それが、カナダの共生というものの在り方だ。(もちろん、ほとんど我慢していない特権持ちもいるだろうけれど。)

私は1998年度の卒論で、日系ブラジル人に関するエスノグラフィを書いたのだが、その結論は、「共生」しか多文化が存在し得る道はない、というものだった。しかし、共生とは、どのようにして可能か。既に存在する文献を、いくら読んでも分からなかったし、日本にはそんなものは、見つからなかった。なかったのだと、今、本当によく分かる。


6.エピローグ、戻ってアイデンティティとは何か

そういうわけで、日本は、皆がアイデンティティを持つわけではない国、である。性別に関しても、フェミニストは女性や男性などとしてのアイデンティティを持つ機会が多いだろうし、ジェンダーダイバースな人びとも、トランスジェンダーやノンバイナリー、女などのアイデンティティを持ちやすいであろう。しかし、不平不満を持たない、あるいはそれを意識しない、または言ってもどうしようもないと思って諦めている、そういう人にアイデンティティを持つ機会は、なかなか訪れない。均質化を成員たち自身に徹底させる、その方法によって。

再度述べて、まとめよう。アイデンティティ自体を持たせないようにすることで、アイデンティティ・ポリティクスをなるべく引き起こさせないようにし、誰かが起こそうとしても、弱いもの同士に潰し合いをさせる国。プリビリッジ・チャンピオンシップによって。そういう仕組みで、国民は均一だ、そうあるべきだと信じ込ませている国。だから、日本の人びとは、アイデンティティを持ち合わせないことが多い。私は、そのように見立てている。


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鶴田幸恵

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