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『帰りたいけど、帰れない。殺されるのが分かっているから』

ずっと、日本の人とやり取りしても、こちらの日本出身者を含む誰とやり取りしても、どうしてもピントが合わせられないことがあり、しかし自分でも、それがなぜかキチンと分かっていなかった。しかし、やっと分かった。私と、殆どの人の認識の違いこそが、決定的に重要なのだ。

まず、結論を先に述べる。その認識の差異とは何か。

私は日本に帰れるものなら帰りたい、でも帰ることができない、こと。何故なら帰ると、行き着く先が、死でしかないから。現状のまま帰りたいかと聞かれたら、絶対に帰りたくないのは、行き着く先が死だから。とにかく、好みの問題ではない。

加えて、この帰結の言い方が、私自身がハッキリと言うのが怖いばかりに弱められているのが問題だった。私が帰りたいけれど帰れないのは、殺されるから、だ。誰に? 国家や日本に住む人たちによって。

???となるだろうけれど、どういうことかを解説しよう。

皆んな、私が「帰れるけれど帰りたくない」と思っているのは、まず誤解だ。なので、私は、日本にある意味で未練タラタラだ。この点を、不思議がられてきた。noteにも、もう日本のことは諦めると、繰り返し書いてある。

時には、こちらの日本出身者に「自分はもう帰らなくてもいい」と言われて、逆に戸惑ったりした。しかし、そう思えるのは、帰ることはできるけれど、帰らないことを選択できるから。

私には、そういう選択肢がない。私はそれを度々、「ゲームオーバー」だと言ってきた。

皆んな日本で、辛くとも生きているから、あるいは、それなりに幸せに生きているから、私のこの危機感が分からない。しかし、この点こそが、まさに私が難民をしなければならない理由、だ。

殺されるのは、日本国家にである。日本の雇用制度や、社会福祉制度に。そして、差別に。差別を行う、日本に住む人たちに。つまり、差別者に。

私にはディソシエーションがあり、自分のことを守ってくれている。まだ、恐怖が強すぎて、まだここまでしか言語化できない。

社会学者であることは、つまり厳密にものを言うように訓練されているのも、ハッキリと言えないことに、絶妙な影響を及ぼしていると思う。

自分が可哀想で、泣ける。

トランスで、アイヌで、発達特性が強すぎるから。その結果、敵が多すぎるから。

この、敵を言語化しないと、だ。

自己陶酔?などと誤解されたりして、何のことか、分からないだろうと思うので、次に、項を改めて、私の言語化を阻んでいる「ディソシエーション」とは何かを、説明することにしよう。

自分でも、ものすごく怖いのは、ここに到達すると、セックスしたい身体の感覚を持つこと。そして、それこそがヒントだ。恐怖で冷や汗をかきながら、ここまで書くことを、頑張っておく。

人はみんな、違うんだ。



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