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『付論:なぜタイトルを「助けてくれる人がいないんです」にしたか』

(これは、2023年夏に書いた『誰も助けてくれる人がいないんです: 難民申請関連情報』”No One to Turn to: How to Apply as Refugee” という未発表の文章の解説です。これについては、後日ポストします。当時、私は本気で難民しようと考えていました。)

もとの文章のタイトルは、自殺予防相談にかかってくる電話で、かけてきた人が「助けてくれる人がいないんです」と最初に言うのはなぜなのかを分析した論文のタイトルの借用です。自殺予防相談なのですから、かけている人は、相談のために電話をかけています。なので、この最初の発話が「謎」です。

簡単に答えを言うと、次のようになります。死にたくなったのに、本来相談にのってくれるはずの、あるいは世間では相談にのるべきだとされてるはずの、だからこそ相談にのってもらえないとさらに死にたくなってしまうような、相談にのってくれる「家族や友だち」がいない。だからこそ、私が自殺予防相談に電話をかけ、相談してするのは、もっともなことだ。そのことを、電話をかけた人は「助けてくれる人がいないんです」という仕方で、自殺予防相談の相談員に伝えている。ここで必要そうな答えをかいつまんで言うと、そんな感じになります。

私は家族とは絶縁しているし、友だちにはいろいろな人がいますが、頼れるのはLGBTQIA+のコミュニティの人たちだと期待しているし、そのように期待するのはもっともらしいと思っているはずです。しかし、日本にいる彼らはなかなか助けてくれません。

また、こちらでは、日本出身者は助け合って生きているはずだし、日本人の私は、私も助けてもらえるのはもっともだと期待している、と思います。しかしやっぱりなかなか助けてもらえません。そのため、私は、助けてくれる人がいないと絶望している。自殺予防相談に電話をかけざるを得ない人と同じように辛い。そういうことを言おうとして、タイトルを付けたようです。

いつも自分でも不思議に思っていたのですが、私は文章のタイトルを直感的に最初に付けます。これは、望ましくないことだと一般的にはされています。なぜなら書いた内容を象徴するタイトルを、最後につけるのが作法だとされているからです。しかし、最初にタイトルをつけるやり方で、失敗をしたことが、そんなにないように思います。

「私は、最初に、書く文章のタイトルを決めることで、自分の運命Destinyと目的地Destinationを、同時に自己決定している」

ちゃっかり、こちらの知り合いに頼んで出版してもらえることになった、自伝的な本の書き出しを、この文章で始めることにしました。それをこちらの所属先の引受人?であるAaron Devor(トランスジェンダー研究の教員)に話したら、次のように言っていました。

「そうだね。でも全部書いてから、もう一度タイトルを付け直すことで、自分の運命と目的地を変えたらいいよね」

秀逸です。こういうエキセントリックなやつがこっちには沢山いて、本当にホッとします。型外れにも、ほどがあると日本では思われる私ですが、上には上がいます。

私は、日本が危険だから難民申請ができることを、実際にやってみて、どういう風にやれるか、知らせようとしており、それは私のように日本から逃げる人を助けたいからです。しかし、そのことを日本のLGBTQIA+コミュニティの人に伝えて、それでも助けてもらえないことを確認し、それをカナダ政府に難民の理由として提出すると、有利になると思います。「日本は、他の人にとっても逃げたくなるような国であるけれども、そう思う人にはそれなりの傾向があり、そうではない日本の人は(コミュニティの中の人であっても)自分たちがいる場所をそのようには思いたくない」ので、現在は私には日本で助かる見込みがない。

助けようと情報をくれる人たちは、私が、日本を脱出せざるを得ない理由を説明する文章を添えてくれるような人たちで、私はそれをさらに資料として付け加えようとしています。さらに、このこのロジックで私が難民に成功すると、私がこの段落の冒頭で書いた願いは、実現に一歩近づきます。だから、私のしようとしていることには、妥当性があります。加えて、そのことは、助けてもらえない状況を受け止める現在進行形の私にも、役立つでしょう。

また、改訂されたここまで(の時点で)これを読んでも助けてくれる人は、日本のそういう状況に共感して、連絡をしてくれるという順番になっていますから、上の筋立ては、崩れません。(あるいは、そうでないなら、それなにり、改訂するか別稿を執筆します。)

私のこういう態度は、日本では、批判の対象になってしまいます。このドキュメントを読んで、私をなにがしかの形で助けたいとメッセージを送ってくれる人たちは、たとえ欠点を指摘しているとしても、わざわざ自分の時間を使って連絡してくれるのですから、私にとっては味方です。日本に今はいるし、自分は逃げたいとは今は思っていないけれど、日本の現状を理解し、私を助けるために自分の時間を使っても構わないと思う人たちです。付け加えるなら、私に自分の書いていることを再検討させ、改善させてくれる、貴重な存在です。本当に自業自得だと思っている人はメッセージをくれたりしません。

しかし、私が逃げたいのは、なんだその態度は自業自得だと私を責める、自分の理解の不足を説明の悪さとして徹底的に相手に突き返そうとする、その傾向からです。何を言っているかわからないと説明を求めることは、私が自業自得だと責められてきたことへのトリガーになっていると思います。

また、要点をまとめて手短に説明しろということも、しばしば言われますが、要点だけ話すと意味わからないと言われるという経験を、私はたくさんしてきました。要点を理解するのに、前提になる知識が多いせいです。それは、持っていない知識の量のせいなので、これについて言及すると、余計にひどいことが起きます。相手が助けてと言っているのに自分より知っていることが多いというのは、助けようとしている人を屈折させるようです。最初にルールを決めて、その通りに進めようとして、皆が忘れていて、最初に皆が同意した、そのルールを指摘すると、キレられるということも多々あります。でもそれをルールを逐一確認して、相手にリマインドしていない私のせいにされるのも、しんどいです。私の負担ばかり増えてしまいます。

以上のようなことは、もともと持っている発達特性に起因しているせいですので、ニューロダイバーシティの問題として、多様性を包摂することで解決しようとするのが妥当です。前にも書いたように、人には出来ることと出来ないことがあり、それは人によって違います。しかし日本では、発達障害バブル?(斎藤環曰く。正しい言い方が思い出せない)が来ているとはいえ、ニューロダイバーシティの理解は、精神疾患のスティグマを伴ってしか、未だになされません。また非定型発達がLGBTQAI+の傾向と重なっているという理解も、日本には浸透していません。(研究者とも重なっていますよ)。そのため、説明をしようとすると、自分が発達障害(障害者!!)だというのか!という反応(思わずしてしまっているものであっても)にあってしまいがちです。

同性愛やトランスジェンダーの病理化・脱病理化・再病理化の歴史に詳しい人たちから、この障害への偏見にさらされると、ものすごく傷つきます。これは「助けてくれる人がいないんです」とはどのような発話であるか、人が救われないと思うときに、どういう状況をそう呼ぶかで説明したことと同じことです。理解のあるはずの人が理解してくれない、という絶望からです。(ちなみに、信州大学の発達障害の専門家、本田さんによると「挨拶のできないやつに、挨拶ができないと怒るのは、ヘイトクライムだ」とのことです。秀逸です。この人も自分も発達だと動画などでよく言っていますが、めちゃくちゃ怒られて生きてきていそうです。)

私のLGBTQIA+コミュニティでのコミュニケーションのなかで受ける打撃は、以上のようなものです。また、私がアカデミアの中でハラスメントに逢い続けて、それをLGBTQIA+のアカデミアの中でも免れられなかったのが、ここで説明したものと同種であるので、決定的に私を傷つけた、ということが、私にはよくわかります。

以上のように、勢いで書いたメッセージの解説を書いたり、この章のように「タイトル回収する」私の作業は、社会科学の論文なら分析に相当しますが、心理学(日本では臨床心理学?)ではプロセスワークと呼ばれます。

私のニューロダイバージェント具合は非常に高いので、会話分析でなされるような「当該の社会の中で当たり前だとされていることが、なぜ当たり前でありえるのか」の分析は、私には新しい知識の発見に見えます。人びとにとって当たり前にわかることは、私には当たり前として経験されていないからです。私が、感情にまかせて直感的に書いたことが、理にかなっていると自分による分析で自分にも理解可能になるのは、自分でも気持ちが悪いです。しかし、直感とは、すなわち「わかる」あるいは「理解」とは、ある種の能力であり、それが「その社会の成員であること」(それならば「自然言語に習熟している」こと)と同義だというクルターの主張にのっとるなら、私の自分の書いたことを自分で分析する、プロセスワークを兼ねたやり方は、極めて科学的に妥当な分析であると論証可能なはずです。能力を持つことと、その能力とはどういうものかを記述できることは、別だからです。前者は社会成員としての能力であり、後者は研究者としての訓練のたまものです。

またそれが「プロセスワーク」という形で、自分が本当は何を考えているのかという理解に役立つと心理学によりオススメされているなら、程度の差はあれ、私のような人は大量にいることになります。そのような人とは、どういう属性で、どのくらい居て、どういう偏りをもって存在しているのか。そういうことも明らかにできるのであれば、「人にとって当たり前だとされていることは本当に当たり前なのか」を探求する道は、次のステップへと進めるのかもしれません。

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