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『アンチ・クイアセオリー宣言(オートエスノグラフィックな何か 6)』

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*シリーズの5を前提にして書いております。

私はトランスジェンダー研究の研究者として、以下の立場に立っています。

研究者がするのは、研究。主義主張をするのは、万人の権利だが、研究者は自己主張せず、アクティビストの肥やしになるのが、あるべき姿。私は研究者として書くリサーチペーパーに、アクティビストとしての主張を混ぜ込まない。

研究結果がしたい主義主張と同じなら、怖い。それが両立できるなら、研究者が恐怖政治をも支えられてしまう。同じやり方をして、自分は良いけど他の人はダメというのでは、筋が通らない。

出版した単著にも、はっきり書いたけれど、社会を変えたいという欲望を持っている場合、最初にすべきなのは、徹底的な現状把握だと考える。私は調査研究上はそれ以上するつもりは、現在は、ない。

だから、私には、ジェンダー研究者を名乗るのが限界。基本的には、トランスジェンダー・スタディーズ・スカラーである。しかし、クイアスタディーズをやっていると思ったことは一度もない。フェミニズム研究者も名乗らない。私は、フェミニズムを研究対象にしていないから。フェミニズムは絶対的に支持されるべきだが、その主張を相対化しながらやらないと、上に書いた点で、私はだめだと思っている。

上野千鶴子は、私には、この点で問題があり、江原由美子はこの点に敏感だったけれど、『ジェンダー秩序』でこけたと思う。

上野千鶴子の分析力はかなり高い。ただ、社会学のリサーチペーパーという形式からは逸脱してる。なぜなら、分析がフェミニズムの主張へと収斂されてしまっているので、そもそもエビデンスベースドという科学の枠内でするとされているものを超えているから。これは、彼女の研究において、いつも常に、である。

クイア研究も上野に対するのと同じ理由で、距離を取っている。

自己主張のための証拠集めに読めるようなものを、エビデンスベースドとは呼べない。この点において、私は科学を信仰しているのだ、と思い知る。社会科学者として可能なのは、全方位的にフェアな態度で、フェアな方法で、誰でも使えるけれども、自分の応援したい分野のアクティビストにとって成果を上げるのに使いやすい情報を用意すること。そのこと、のみ。

しかし、この信仰はまた、学問の中で相対化され得る。そもそも構造主義とは、そこからスタートしたのではないのか。

(以上、バトラー自身が、文学理論のテクストクリティークの方法論をきちんと踏まえてやっていることにも、他領域へのコミットメントの高度さにも、次々と情熱的に著作を執筆していることにも、尊敬の念を持っていること、ならびに、上野さんが、女だと叩かれながら成し遂げたエネルギッシュな一連の研究自体や、東大の門の側にマンションを買って研究室に缶詰になって仕事に全力投球する姿勢や、領域横断的に他の研究者と国際的に渡り合う力量を尊敬してやまないことは、付け加えておきたい。なお、この加筆を勧めた同胞のアドバイスに記して感謝したい。

もう一つ付け加えるなら、私は女性学の次の世代だということだ。上野さんには上野さんのようにやる必然性があったことは、わかっているつもりだ。先人の功績には感謝の念しかない。しかし、先人と同じことをしていては、運動が進化しないのも、また事実だろう。

なお、私は自分の立場を宣言しているだけで、個別の研究批判をしているわけではない。)

もちろん、研究とアクティビストは別建てでも、アクティビストは、授業やゼミ、学内での活動、頼まれた教育講演とか、都の人権専門家会議のボードとか、ハラスメント研修とかで、さんざんやってきたし、どんだけ使い倒されたかわからない。

また、学術論文や学術書が難解なのは、誤読を避けようとするがゆえ。これを徹底的にやろうとすると、文法的にはシンプルにしても、言い回しはシンプルにはなり得ない。

文章の理解度は、どれだけその分野の文章読んでるかに左右される。読みにくいのは、こだわりポイントがわからないからだし、こだわりポイントをわかるほど、数も読んでないし、読み込んでもないから。それに対しては、ある程度の努力を読み手に求めたい。

もう一つ、以下のことは貫きたい。これは私のこだわりだが、複雑なことを単純化して説明して、わかってもらうってのは、誰でもできるし、みんなすでにやっている。それに対して、私は【複雑なことは複雑なまま受け止める】必要があり、その練習をしないと、人の能力は底上げされない、と思っている。なので、わかりやすい説明をすることに腐心するつもりはない。

私は、大学院進学前に、ジャーナリストになるか迷い、朝日新聞の偉い人がやっていた、記事の書き方を練習する会みたいなのに通った。しかし、私の伝えたいことはシンプルにすればいいというものではないので、この文字数では無理だと、新聞記者になるのは諦めた。ジェンダー論のクラスは、「単純化することにより、大切なものが漏れてしまうので、複雑なことは複雑だと、そのまま受け止める訓練をしよう」をスローガンにやっている。

最後に。人は考えたことのあることや、考えたことはなくても想像可能なことを人に言われると、断片だけで内容を理解できる。でも思ってもみなかったり、想像を超えていると、全くピントが合わせられない。

それに加えて、人にはわかり時ってのがあり、わからないときにはどう頑張ってもわかり得ない。でも、わかり時には、何かのキーワードで全部がストンと落ちたりする。なので、わからなかったら「わからん」と思ってください。でも、それで終わらせないでください。で、「あら、あの話なんだっけ?」と思ったら読み直してください。そんな時間ないなら、興味の度合いがそれくらいなので、ある程度は仕方ないのですが、でも、興味の度合いも上下しますから、いつか興味を持った際に、思い出して読んでいただきたいです。

なお、リサーチャーとアクティヴビストの側面を使い分けることは、私と非常によく似た研究歴を持つアーロン・デヴォーと共通している。このことは、彼が最初に教えていたのが統計学であることと、私がテニュアに採用された際に、量的調査の実習がノルマとされ実際に行っていたことと、大いに関係していると考えている。(詳しくは、別稿に譲る。)

最後に、ここまで読んで、フラストレーションを感じた人に、もう一声。

多くの人々にとっては、LGBTQIA+が世界をぶち壊すのではないかと疑うことは、いまだ可能である。それがどういうことかは、つまりそのように考えることがLGBTQIA+に対する人権侵害たり得るという説明自体は、相対化を行わないとできない。そういう相対化や、闘うための武器としての、人権侵害のなされ具合を示すデータなど、みんなが現実を疑って、草の根的な何かを日々する材料を私は用意してるつもりだし、それをすることが私の仕事だと思っています。

私は、日本のトラスンジェンダースタディーズの看板を背負わないといけないと、背負わないようにしていた、それを背負って、ついに倒れた。なので、しばらくは、その看板は降ろさせていただきます。

さて、次は、研究者としての経験はいったん置いておいて、このシリーズでは、『バッド・フェミニスト』な教員としての経験を書きますかね。つづく。


追記
1990年代末に、すなわち日本ではトランスジェンダーや性同一性障害ということばが、アカデミアでもほとんど通じない時代に、調査研究を始めて、社会学の分野で科学として、きちんと認められうる研究をしていると認識をしてもらうこと自体が、私にとってはある種のアクティビズムだった、というように思います。


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