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蟹と蛙に救われた娘_現代人のための仏教説話50

置染臣鯛女おきそめのおみたいめは、奈良の都の富(登美寺)の尼寺、上座尼に(位の高い尼)である法邇ほうににの娘である。(位の高い尼)である法邇に娘である。

彼女は、仏道修行への思いが一途に深く、未だ男性との関わりをもたないでいる。行基菩薩(奈良時代の高僧)に捧げる菜を心を込めて摘み、一日も欠かさずお仕えしていた。

ある日、山に入って菜を取っている時、ふと見ると大きな蛇が蛙を飲み込もうとしていた。

「その蛙を私に譲ってください!」と、鯛女は大蛇に頼んだ。しかし、大蛇は聞かずになおも蛙を飲もうとする。そこで鯛女はまた大蛇に頼んだ。

「私はあなたの妻になります。だから許してやってください」

それを聞いた大蛇は、頭をもたげて鯛女をじっと見つめ、蛙を吐き出した。鯛女は大蛇に、「今日から七日たったら来てください」と約束した。

そして約束の日、鯛女が家の戸を閉めて隙間を埋め、身を固くしてこもっていると、まさに約束した通りに大蛇がやってきて、尾で壁を叩いた。鯛女は恐ろしくなり、次の日、生駒の山寺に住んでおられる行基菩薩にそれを話した。

行基菩薩は、「そなたは逃げることができないだろう。ただひたすらに戒律を堅くまもりなさい」と言われた。鯛女は仏・法・僧の三宝に篤く帰依し、五戒(盗み・殺生・邪淫などを禁じる五つの戒め)を受けて帰ってきた。そしてその帰り道、鯛女は大きな蟹を持った見知らぬ老人に出会った。

鯛女はとっさに、「どこのお爺さんですか。私にその蟹を譲ってください」と頼んだ。すると老人が答えた。

「わしは摂津国(大阪・兵庫の一部)の兎原郡の者で、画問邇のに麻ま呂ろ という。年は七八歳になるが子は無く、生きていく手立てがない。難な にわ 波(大阪)に行ってたまたまこの蟹を手に入れたんだが、あげる約束をした人がいるので、お前さんに譲るわけにはいかないんじゃ」

それでも鯛女は上着を脱ぎ、それで買おうとする。が、老人はダメだと言う。そこで鯛女が裳も(下半身につける大切な衣)も脱いで「譲ってほしい」と懇願すると、老人はようやく承諾した。鯛女は蟹を受け取り、また生駒の山寺に戻り、行基菩薩にお願いして祈願してもらい、蟹を放してやった。行基菩薩は、「貴たっときことだ。善きことだ」と感嘆された。

八日目の夜、大蛇はまたやってきて屋根の上に登り、葺いてある萱を抜いて中に入ってきた。鯛女は恐ろしさに震えた。その時、床の上で飛んだり跳ねたりドタバタする音がした。

明くる日に見ると、大きな蟹がいて、大蛇がズタズタに切られていた。そこで、これは鯛女が老人から買い取って放してやった蟹が、恩返しをしたのだということがわかった。またこれは、仏の戒めを守ったことが力になっていることもわかる。

この話の虚実を知ろうとして、あの老人の名前を尋ねたが、結局探し出すことはできなかった。ここではっきりしたのは、あの老人は聖者の化身であったということである。誠に不思議な話である。 

〔日本霊異記・中巻第八〕


【管見蛇足】信念を貫く強さをもつ

 大蛇の妻になることを約束させられた娘は、落胆と恐怖に消沈していたであろうに、それでもまた老人から蟹を譲り受け、蟹の命を助けた。老人に姿を変えた聖者は、娘の信心の程を試したのかもしれない。そして、仏を堅く信じる娘の姿に感じて、救った。
 われわれ現代人の多くは、人の道の何たるかは知っている。しかし、困難や辛苦に遭遇したり甘い誘惑に出会ったりすると、信念を曲げ、つい不徳非道に踏み込んでしまう。そこで大事なのは、信念である。「自分が正しいと信じることをすればよい」(エレノア・ルーズベルト)、「自分の道を進む人は、誰でも英雄です」(ヘルマン・ヘッセ)、「自分自身を信じることは魔法だ」(ゲーテ)。何があろうと、正しいと信じた道を進むことである。

仏教説話50 表紙仮画像

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