シン・エヴァは誰が何と言おうと(略)*ネタバレあり
シンエヴァ観ました。四半世紀続いた物語の終わりを見届けられて心がポカポカです。以下、感想。
いきなりですが私、Qが好きじゃなかったんです。テレビシリーズも旧劇も序・破も映画館や円盤で累計5週はしたと思いますが、Qだけは1回しか見る気になれなかった(円盤は買ったけど)。
でもシンを見た後だと、「あ~、Qはあれでよかったんだなあ」と納得できました。というのも、シンであらためて気付かされたのが、エヴァは「碇シンジの物語」なのだということ。
破の最後の次回予告は嘘予告だった説があります。私も一時期信じてましたが、シンで嘘じゃなくて破~Qに至るストーリーの一端であることが判明しました。「あの予告を続編にしたほうがQよりおもしろそう」という意見もあります。私も一時期そう思ってました。
でも、そうして「シンジ不在の14年間」を作品化してしまうと、エヴァが「碇シンジの物語」である純度が薄れてしまうんですよね。ストーリーとしてはわかりやすくなるけど、シンジへの共感度が弱くなる。そしたらこれほどまでにシンが心に刺さっただろうか?と思えて仕方がないので、破→Qの超展開はあれでよかったのだと今は納得しています。
そして、「碇シンジの物語」とは何かというと、私は「エヴァのパイロットとしてでないと居場所(人とのかかわり)を持てなかったシンジが、乗る→やめる→乗る→やめる…をループしながら成長し、最終的には『エヴァなしの世界で生きていけるようになる』物語である」と解釈しています。
テレビ版も旧劇も新劇も一貫して「第三新東京市に来る以前のシンジの生活」を一ミリたりとも描写しない(「先生」というナナシの人物が保護者だったという程度の情報だけ)あたりに、私としては製作者側の意図を感じずにはいられません。エヴァパイロットになる以前のシンジには人間関係と呼べるものがおよそなかったことを暗示しているのではないでしょうか。
この物語がなぜこれだけ多くの人の心を揺さぶるかというと、ロボットアニメのガワを被っていながら、テーマ自体にものすごい普遍性があるからだと考えます。上記の「エヴァパイロット」を「お受験」「習い事」「部活」「地位や肩書」などなど、視聴者個々人の状況に即したワードに置き換えれば、誰もが自分とシンジを重ねることが可能だからです。「自分のアイデンティティー、レゾンデートル、自信のよりどころは〇〇しかない…。でも〇〇でいるのはつらい…」という二律背反に苦しむ人たちがいかに多いことか、とも言えます。
それに対する庵野秀明さんのアンサーもまた一貫していて「あなたはあなたのままでいい」「人は一人じゃ生きていけない」という人間賛歌です。テレビ版26話の「僕はここにいてもいいんだ」というセリフがまさに象徴するように。旧劇もラストの首絞めのインパクトが強すぎてアレですが、「また人とかかわって傷つき傷つけられてもいい」との覚悟を固めてシンジが他人と過ごす世界を望む、という本質的には成長譚(きっとあの先も一筋縄ではないでしょうけど)だと理解しています。
そしてついにシンでは「エヴァの存在しない世界」で「新しいパートナーとともに」、背格好もすっかり大人になったシンジが走り出していく―という、完全無欠に未来が祝福されたハッピーエンドを迎えました。
予想された通り、シンの賛否両論具合はリアタイでの旧劇やQと同じかそれぐらいすごいですが、ここで私は声を大にして言いたい。
「シン・エヴァは誰が何と言おうとベリーウルトラスイートハッピーエンドである」と!
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