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血の味

 紅夜は朔隼の部屋に走った。
「朔隼‼」


 慌てて入るとそこには誰もいない。いや、寝台の上に誰かが転がっている。長い手脚を投げ出すように倒れている。仰向けだが顔は横を向いていて表情が見えない。見たところ怪我はない。その状況を見ただけで紅夜はおぼろげに理解をした。これは嘘だ。


「朔隼。しっかり」
 紅夜はそういいながら走り寄った。
 寝台に転がっている朔隼の顔を見た。笑っている。心底嬉しそうに。そして心底嘲り笑っている。


「やぁ。心配してくれたのかな。ありがとう。でもね——」
 朔隼は起き上がりながらいう。その美しい目には何の感情も映っていない。唇は艶めき、銀髪がきらりと輝く。あまりにも目が痛くなるほどの美貌にはもう慣れた。この人はどんな人よりも一段と人間らしい欲望の持ち主だからだ。後ろの戸がばたんと閉まる。


「君を殺そうと思っていた僕の心がいたくなっちゃうよ。まぁ、心があればの話だけど」
 朔隼の凄艶な顔が急激に醜くゆがむ。実際に醜いわけではないが人離れした顔から人に戻ったような感覚だ。紅夜は心が固まるのを感じた。何も感じない。


「人っていうのは愚かなものだね。君は私が君の事を愛していると勘違いしていたよね?な訳ないじゃん。君は私が殺し損ねた月影家の小娘さ。軍に入った時から私の檻の中で動いていた人形。よいたとえだと思わないかい?」
 紅夜は寝台から起き上がって立ち上がろうとしている朔隼を見た。朔隼の手は今、サーベルの柄にかけられようとしている。


 『私が殺し損ねた月影家の』
 紅夜はよくわかった。その言葉だけで痛いほどわかった。
『君の事を愛していると勘違いしていた』


 ふざけないでほしい。私は一度もあなたの事を好きだとは思っていな——いや、思ったかもしれない。しかし、だからどうした。思ったから、信じていたと? 好きな人の事は一ミリも疑わないと?


 紅夜は歩きだした。短剣を取り出す。そして朔隼に近づく。朔隼は無駄なあがきだと思っているのか余裕の表情だ。
 紅夜はぎゅっと自分より優に十センチは高い朔隼を抱きしめた。朔隼は一瞬驚いたような表情を浮かべた。全体重を朔隼に預ける。朔隼の体勢が崩れる。朔隼は納得したような顔をした。そしてふっと目を閉じた。


「君もあざといじゃないか。ほんと、あざとい。でも私は君個人の事は嫌いではなかったよ。それどころか……好きだったのかもしれないな」
 最後の力を振り絞るようにして、朔隼がぎゅっと抱きしめ返してきた。そしてそっと優しく、紅夜の唇に自分の唇を重ねる。
 血の味がした。嫌な味だ。しかし、自分は相手を払いのけられずにいる。

 ガタンと大きな音がして部屋の戸が開いた。
 紅夜は朔隼に回していた手を放した。抱きしめられていたはずだが、朔隼は思ったより簡単にベッドへと倒れこんだ。

 紅夜の手は真っ赤に濡れている。紅夜の耳には朔隼が言った言葉がざわめいていた。口に血の味が広がっている。
『好きだったのかもしれない』


「紅夜‼」
 羅貴と冷雅だった。朔隼はふっと笑った。
「紅夜、私をさっさと殺してくれないか?私の背中に刺さっている短剣ではなくてサーベルで」


 紅夜は無意識のうちにサーベルを抜いた。ベッドに倒れこんでいる朔隼は満足げな表情を浮かべた。紅夜の髪についていた朔隼にもらった髪飾りを取られていたことに気づいた。
「全く。君は本当に……」


 言い終える前に紅夜はサーベルを振り下ろした。紅夜の顔に返り血がかかる。朔隼はいつも以上に白い顔で、胸の赤い染みを光らせ、死んでいた。
 シーツに赤い染みが広がる。手に握られていた、偽りのプレゼントの髪飾りは血で徐々に美しい青色の宝石を気味の悪い紫色を見せていた。


 朔隼の顔は白く、そして何よりも純粋な笑みを浮かべていた。恐ろしいほどに純粋な笑みだった。純粋でない人が笑うとどこか変な笑みになるのに朔隼の笑みは役者らしく完璧な笑みだった。

 紅夜はふっと意識が途切れた。

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