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不信

 冷雅は一人、訓練所でサーベルをふるっていた。


 あの……紅夜は……信じられない……なぜ……どうして……紅夜……忘却薬……副作用……三年……桜……


 心の中を言葉が駆け巡っていく。
 ビュン
 サーベルが鈍い音を立てる。いつもの自分の素振りの音ではないことなどわかっている。全く思い通りの動きができない。
 成果が出ないまま汗が流れて集中できなくなる。


 サーベルを遠くに放り冷雅は地面に仰向けに倒れこんだ。誰もいないからできることだ。こんなところを誰かに見られたら……。目を閉じる。
「冷雅……」
 上から声がした。羅貴の声だ。ふっと目を開ける。
「羅貴……」
 冷雅はまた目を閉じる。羅貴も羅貴だ。まだ紅夜を追い出してもいない。
「冷雅。最近の試合では最悪だったみたいだね」
 羅貴は軽快な口調で語りだす。


「紅夜の事なんだけど真実が見えてきたよ。話を少し聞いてくれるかい?」
 冷雅は目を開く。そしてひどく冷たい調子でいう。
「何度言われても事実は変わらない。真実によって事実が変わることはあまりない」
 羅貴の蜂蜜色の髪がキラキラと日の光に当たっているのが見える。
「そうかもしれない。でも聞いてくれるぐらいしてくれてもいいんじゃない? 今冷雅も言ったでしょう? 『あまり』ないって」
 羅貴はそういうと手を差し出した。冷雅はその手を持たずに立ち上がった。
「わかった。聞くだけ聞く」


 二人は訓練所を出て、羅貴の部屋に向かった。途中で紅夜がすれ違った。
 ロングコートのすそを翻して歩いているさまは堂々としていた。そして紅夜の顔を見てハッとした。まるで数日寝ていないかのようだ。顔色が悪く、冷雅に気づくと顔を下げるそして足早に横を通り過ぎた。一瞬冷雅は紅夜の目を見た。きらりとビーズのように輝いているのが一瞬見えた気がした。


「彼女を見てわかっただろ。彼女はつらい思いをしているんだ。でも君の言い分もわかるし、君が悪いわけじゃない。紅夜も悪くない。今回の事件には別の誰かがいるはずだ」
 羅貴の言っていることは曖昧でただ紅夜をかばうための言葉にしか聞こえない。しかし……紅夜の顔は演技には見えなかった。


「裏で誰かが?」
 冷雅はぶっきらぼうに繰り返す。しかし羅貴はシッと指を唇に当てて黙らせた。
「わかってるよ。僕がただかばっているように聞こえることぐらい。でもとにかく僕の部屋に来てからにしてくれるか?」
 その声は真剣そのものだった。冷雅は乱暴に頷いた。


 久しぶりの羅貴の部屋は片付いているとはいいがたい状態だった。何枚もの書物や資料が所せましと並び、積み重なっている。
「朔隼について調べていた」
 冷雅が聞く前に羅貴は答えた。


「まったく。僕たちはすごく馬鹿だったよ。朔隼って本当に得体のしれない奴だなんて考えもしなかっただろう」
 冷雅が何か言う前に羅貴はごく自然に言った。
「そうそう。父上が暗殺された。ご丁寧に『火葬』までしてくれて」
 羅貴はふっとほほ笑んだ。寂しそうでどこかわかっていたような笑みだ。


「父上は本当にどうかしていた。特に最近はね。今は東宮の兄上が指揮を執っているよ。でも兄上は優しすぎる。誰かに恩を着せられたり、脅されたら一瞬で従ってしまうだろう」
 あの人懐っこい顔が恐ろしいまでに厳しくなる。
「で、話を戻すけど紅夜が朔隼から興味深いことを聞いたんだ」
 羅貴は一呼吸おいて、言葉を放った。


「忘却薬の効果の年月を知っていた」
 冷雅ははじめそれがどうしたと思っていた。しかし続いた言葉に徐々に目を見張った。
「この年月は誰も知らない。いや、金、銀の縁取りのある軍人以外知らない。国家機密だったんだ。この薬が発明されたとき、その時は大騒動だったよね。だって三年間という期限付きでその後には思いだすという特性に闇社会が手を伸ばそうとしてこないわけがない。決して知られないように隠した。知っているのは金銀の軍人だけだときつく定められた。それを知らないはずなのに知っていた朔隼の軍位は紫だ」
 冷雅は息が苦しくなった。


「そう。つまり」
 羅貴は促すように頷きながら朔隼の写真を持ち上げた。
「こいつは何者だ」
 冷雅はそういいながらサーベルで深く写真をついた。
 バリッ
 紙が裂かれる音が静かな部屋に響く。
「さぁね」
 羅貴はそういうとさらに写真を引きちぎった。
「まあどちらにしてもどうにかしないと。危険人物であることに変わりはないから」
 羅貴はそういってから冷雅に向き直った。


「それじゃあ、紅夜と仲直りぐらいはしてくれる?」
 冷雅は戸惑った。
 許すべきか……許さない……いや、勘違いした俺が悪かったのだから謝らないと……でも紅夜が俺の記憶をなくそうとしたことは……
「それに恋人だったんでしょ」
 羅貴は先ほどの鋭い表情ではなくいつものふわりとしたキラキラとした表情に変わっていた。


 冷雅は目の前がぐるぐる回っているような感覚がした。
「どうして? 恋人だった」
 冷雅がポツリと言った言葉に羅貴はため息をついた。
「冷雅。それは君が自分で考える事じゃないか?」
 冷雅は答えが分からなかった。前髪をさらりとかきあげる。そしてコートをぎゅっと握る。


「またね。そろそろ帰るよ。そういえば天皇陛下の死が伝えられるのは明後日だよ。暗殺なんて物騒なもので亡くなったと国民が知れば大騒動どころじゃないからね」
 羅貴はふっと横を通って去って行った。

「わからない。わかるかよ」
 冷雅は一人で呟いた。自分の黒髪が目にかかっているのが分かる。なのに払いのける気力すら出てこなかった。
「羅貴様、いらっしゃいますか?」
 女の——聞きなれた声だ。紅夜。


 冷雅は黙って戸を開けた。紅夜は目の前にいるのが羅貴ではないことに気が付いたらしい。ハッとしてたじたじと後ろに下がっていく。
「羅貴はもう帰ったぞ。どうした」
 紅夜は深く息をすって声に出そうとした。しかし、女中に声に遮られた。
「大変です‼ 朔隼さまが何者かに襲われて深い怪我をなさいました」


 紅夜はパッと振り返って駆け出した。黒髪がふわりと目の前で翻る。コートが風を受けてはためく。
「今行く。朔隼の部屋か?」
 紅夜のきびきびとした声が聞こえる。
「はい」


 冷雅は一瞬反応が遅れたが同様に走り出した。紅夜の後ろ姿を追っていると後ろから殺気を感じた。
 振り返ってサーベルを抜く。
 キーン
 刃と刃が響き合った。黒装束の何者かが後ろから冷雅を攻撃しようとしていたのだ。
 冷雅は冷静に相手の様子を探った。かなりの手練れだろう。剣筋に迷いもなく。先ほどから危ういところまで刃が迫ってきている。
「くっ」


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