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氷解け

 紅夜が目の前で倒れた。
 地面にぶつかるまで動けなかったのだ。あまりの事に硬直し、理解ができなくなっていた。


「紅夜‼」
 羅貴が走り寄っている。それを見ている自分。
「冷雅、鑑識班を要請してくれ。冷雅、冷雅‼」
 羅貴に怒鳴られるまで微動だにできなかった。
「あ、ああ」
 冷雅は駆け出した。


 ベッドに倒れている朔隼。赤い染み。無表情で何も感じられない紅夜の顔。朔隼の手に握られた髪飾り。紅夜が倒れている様子。床の上で乱れる紅夜の黒髪。


「鑑識班‼ 今すぐ刑部長室に来い」
 冷雅が鑑識班の部屋に駆け込んで叫んだ。鑑識班はあっけにとられたようだったがすぐに動き出した。


 冷雅は来た道を戻った。
「冷雅、紅夜を抱き上げてくれないか? 僕は、こいつの持ち物検査をする」
 羅貴は白いグローブをつけながら言った。
「いや、俺がする」


 冷雅は紅夜を抱き上げるという事が何故か恐ろしいような気がしていた。今まで疑っていた人物が本当は潔白だった。疑われていた人にとっては俺はどういう立場なんだ。紅夜に申し訳ないという気持ちがあふれ出てきた。


 羅貴は無言で紅夜を渡してきた。慌てて抱き上げた。紅夜はあり得ないほどに軽かった。黒髪が腕にさらさらとかかる。雪よりも青ざめた顔をしている。その顔の中で浮かび上がる血に濡れたような紅唇、と醜く跡を残している朔隼の返り血。細かく震える体。


「紅夜を看護班の所に運んで行ってくれ」
 冷雅が部屋を出ると外には鑑識班がいた。
「ああ、中に入れ」
 鑑識班の珍し気な顔で見ていた。

 冷雅は紅夜を抱えて歩いていると紅夜が入ってきたときから今までの事を思い返していた。


 はじめ死刑と宣告されそうになっていた時の紅夜の顔はあきらめたような顔だった。諦めたような様子だ。
 試合をした時は誰よりもスリリングな試合だったと思う。暗殺者らしい動きの中にある、武芸者としてのにじみ出るような品格。
 軍服を着たときの姿。端厳な美しさを感じたことをよく覚えている。
 軍の戦い方について教えていた時の様子。案外すぐに習得して言っていたことに軽く嫉妬を覚えたことすら思いだせた。
 パーティーの時の服装。見てきた令嬢たちと違ってドレスに着せられているのではなく、紅夜がドレスを着ているのだとわかった。軽快なユーモアのあふれる言葉。自然な笑み。
 朔隼が——朔隼が紅夜に触れたり、色目を使ったりするたびに感じていた、いら立つような思いは何なのだろうか。紅夜が朔隼と笑う姿を見て、気に入らないような気持ちになったのはなぜなのだろうか。
 
 冷雅は看護班のいる部屋に入った。
「一等武官の月影 紅夜が倒れた。診てやってくれ」
 看護班はテキパキと近づいてきた。
「その時の状況はお聞かせ願えますか?」
 看護長がメモを片手にやってきた。
「……言っていいのか判断ができない。しかし、ショックを受けたのだろうという事はわかる」
 看護師たちが紅夜の脈を取ったり、体温を測っている。


「脈も、体温も平均的なものです。しかし、確かに精神的にショックが大きかったようです」
 看護長が看護師たちが測っていったデータをもとに話をした。
「そうか」
 冷雅はそういうと部屋を出て行こうとした。
「冷雅……」
 紅夜がかすかに囁く声がした。冷雅は振り返り紅夜の顔を見た。目を閉じている。うわ言のようだ。


「冷雅、朔隼が……朔隼が……月影家を……」
 看護班は全員意味ありげな顔をして部屋を出て行った。
「滅ぼしたのよ……私を除いて」
 冷雅は今紅夜が言っていることの真偽はわからなかった。でも、紅夜が必死になって伝えようとしているのはわかった。今、自分がすべきことは聞いてやることだと直感した。
「朔隼が、私に近づいて……殺そうと」
 そういうと紅夜は目を覚ました。


 冷雅はハンカチを水で濡らし、紅夜に渡した。
「顔の血をふけ」
 紅夜は自分の顔を触るとぎょっとしたようだった。そしてまるで悪しき思い出を拭い去ってしまいたいというように顔をぬぐい始めた。しかし、手先が震え、上手く力が入っていないのがわかる。


 冷雅は少し乱暴に紅夜の手からハンカチを取ると、紅夜の顔をぬぐった。唇にまで血がこびりついている。皮膚の薄い唇に傷をつけないように慎重に拭く。紅夜は驚いたようだったがおとなしくしていた。


「私(わたくし)は……天皇家直属の護衛官の華族、月影家の一人娘なの」

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