『教壇に立つ資格はない』と言い切った先生の話

間違えたことを教えるな 
それができないなら教壇に立つ資格はない

学生からの人気は良くても下から2番目
必修講義が多く、授業は取らざるを得なったけど、私も得意ではない科目のとびきり厳しい先生だった

『空気は電気を通しません』と答えた同級生に対して
『じゃあ雷はどう説明するの?』と聞かれて、口籠ったときに先生から出た言葉だった。

どんなにお前に学がなくても俺たちは困らない
でも教壇に立ったら子どもからしたら
お前がいったことが“正解”なんだよ

その時は『そんな大げさな』と思って聞いていたけど、確かに小学校の頃ならなおさら先生が言ったことが間違えているなんて考えたこともなかった。

特に私が専攻していた教科は知識の入れ代わりが激しく、正直それが正しいかどうか検証するのは途方も無いことのように感じていた。
その先生の授業で徹底していたのは、以下に私たちが無知であるかを突きつけるというもの。
少しでも授業で言い淀んだことがあれば、それを全員がレポートで調べて提出しなければいけなかった。
『こんなことになんの意味が』と感じたことも多かった。


今、様々な形で子どもたちの前に立って話す機会が多い。
どんなことを話そうかなと考えるときに、まずよぎるのはこの先生の

間違えたことを教えるな

という言葉だ。

この学年の子どもたちには伝えるべき学習内容ではないかもしれない。
もっと簡単に言い切ってしまったほうがわかりやすいのでは。
そのほうが、私も楽だしテンポもよい。
…でも
それを子どもたちが正しいことだと誤認してしまったら?
 
そう思うと、必要以上の下調べをし、歯切れが悪くてもどんなに難しいことでも間違ったことを教えてはいけないと思う。

『これは今習う話ではないけど、そんなこともあるんだな程度に聞いてほしいんだけどね』
そんな回りくどい言い方をしながら
正しく伝わるように慎重に言葉を選びながら
絶対に間違えたことを伝えないように

そのための下調べの方法は先生のレポートで死ぬほどやった方法だった。
伝え方は先生に聞かれたときに『君はわかってるね』と言われるときの伝え方だった。

私が無駄だと思っていたことは、無駄なんかではなくて『人にモノを教える』ときに最低限必要な本当に基礎的なことだったのだと知った。

1教えるためには100知らないといけない。
そのためには100調べて本当に正しいか判断しなければいけない。

正直10知ってるくらいで『まぁ伝わればいいか』と妥協したくなることはある

そのたびに先生の言葉が頭をよぎる

間違えたことを教えるな

そうですよね。
こちらの妥協で子どもたちの未来を変えるわけにいけない。

あのときの厳しさが、今だからわかる。
あのとき先生が伝えたかったことが、今だからわかる。

教師としての基本は正しいことを教えることではなく、間違えたことを教えないことだと叩き込んでもらったことに、今では本当に感謝している。

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