「アメリカの歴史」第3章

🔷以下の文は、上記の本をもとに、私が翻訳・要約した日本語記事です。

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第3章 彼らが来た!見た!支配した!

探検の時代

ヨーロッパ人は、シルクやスパイスのような高価な品物にお金を払いたがった。それは、アフリカを通って旅をするアラブ人やベルベル人か、もしくは、インドや中国へ続くシルクロードを通って旅をしていた商人からしか買うことができなかった。

探検のための技術

ヨーロッパ人にとってラッキーだったことは、素晴らしい地図と、ナビとなる新技術が発明されたことだった。これらはルネッサンス(知識の向上や技術のイノベーションによって特徴づけられる時代)から生まれた。新技術として、磁器のコンパスやアストロラーベ(天文機器)が大活躍した。コンパスは、海の航海の安全性と効率性を向上させた。また、アストロラーベは、太陽と月の距離を測ることによって、海上での船の居場所を算定することができた。まるで古代のGPSのようだ。

航海士は、北大西洋海流がヨーロッパとカリブ海の間を時計回りに流れていることと、南大西洋海流がアフリカと南アメリカの間を反時計回りに流れているということを理解していた。この知識が、彼らをあちこちに航海させる勇気を持たせた。そのおかげで、彼らは時に新しい土地を発見することができた。しかし、またそのせいで、彼らは海上で遭難することにもなったのだが。

1400年代までに、ポルトガル人はカラベルと呼ばれる帆船を発明した。アラブで開発されたボートを基礎に造られたその船は、速くて操作が簡単だった。風を切って海上を走り、海岸線近くを航海したりすることも可能にした。

ヨーロッパでの交易

11~13世紀、十字軍や中国まで旅をしたマルコポーロによって、ヨーロッパでは、アジアの4つの品物が広まった。それは、香辛料、シルク、香料、宝石だった。ヨーロッパ人は、これらを手に入れることに必死になった。ヨーロッパは繁栄していたので、人々の物欲も高かった。

※十字軍とは : イスラム教から聖なる場所を取り戻すための、9人のヨーロッパ人による探検隊のこと

ヘンリー王子

ポルトガルは、探検家の輩出ではヨーロッパでトップだった。先陣を切ったのは、ヘンリー王子で、1400年代に航海士のための学校を建てた。(王子自身はどこにも探検には出かけなかったのだけれど。)学校の教育により、優秀な人材が輩出された。カラベルの乗り方、操縦の仕方はもちろん、海岸線にそって探検する方法なども教え込まれた。そのおかげで、彼らは、現在ゴールドコーストと呼ばれるアフリカの海岸線まで航海することができるようになり、金・象牙・奴隷などを仕入れて戻ってくるようになった。しかし、彼らが一番に目指していたものは、インドまでの航路の探求だった。ヨーロッパの人々は、旅商人を通さずに直接インドと交易をしたがっていた。

西アフリカの奴隷売買

1400年代の西アフリカは、もはや統治による栄光は過去に消え去り、混沌としていた。土地や貿易の権利を巡って、内戦状態となり、いくつもの小さな王国に分裂していった。そして、この頃には敵を捕獲して奴隷にすることは日常茶飯事になっていた。600年代頃には既に、アラブのイスラム商人たちにより、塩や金などの貨物のおまけとして奴隷がつけたりしていた。1480年代にヨーロッパ人がこの地に上陸するまで、このアフリカでの奴隷売買は大きなビジネスのひとつだった。さらに、ヨーロッパとの交易により、奴隷貿易は拡大していったため、アフリカから村々が次第に消えていった。

ポルトガル人の遠征

1453年、インド方面に向かう陸路・コンスタンティノーブルは、イスラム教徒のものとなったため、ポルトガル人は陸路を使うことができなくなり、航路を発見しようと決意した。

1487年、探検家バルトメウ・ディアスがポルトガルを出発した。嵐と風による偶然によって、彼はアフリカの南端にまで辿り着くことができた。ディアスは、インドに辿り着ける兆しだろうとして、その土地を喜望峰と名付けた。

1497年、バスコダガマは、喜望峰の辺りでインドへの航路を探していた。そして、ラッキーなことに翌年5月にインドに到着することができた。そのおかげで、ポルトガル人はスパイスや磁器、シルク等の商品を手に入れるルートを確保するに至った。ポルトガルの首都・リスボーンはこれによりヨーロッパで主要な貿易の大都市となり、非常に繁栄した。

実は言うと、ポルトガル海軍のベドロ・アルヴァレスらは、アフリカに行く途中に、現在のブラジル付近を航海していたが、インド発見にはつなげられなかった。

バイキングとは

スカンディナヴィアからヨーロッパに来た航乗り達を、当時バイキングと呼んだ。彼らもまた優秀な探検家達だった。バイキングのエリック・ザ・レッドはグリーンランドを発見した。そして、その息子のリーフ・エリクソンは、1000年頃に現在のカナダを発見し、その土地をビンランドと名付けていた。しかし、バイキング達は船乗りであり、ひとつの土地に定住はしなかったため、これ以降に登場した探検家によって、アメリカ大陸は発見されたことになっている。

クリストファー・コロンブス

コロンブスは、1492年イタリアに生まれ、ポルトガルで教育を受けた。彼は、自分が航海に出たら誰よりも早くインドに辿り着けるという根拠のない自信を持っていた。ポルトガルの探検家のための学校では、世界が丸いことを習うが、その距離がどれだけなのかは学ばなかったので、コロンブスも世界の広さを知らなかった。そして、果敢にも自分の計画にチャレンジさせてくれるパトロンを探していた。しかし、なかなか見つからない。最終的には、スペインのフェルディナンド国王とイザベラ女王に、キリスト教を広く布教させることができ、信じられないくらいの富をスペインにもたらすことができると話を持ち掛けて、旅費を獲得した。しかし、コロンブスは世界の広さを知らなかったことが原因で、予算額を低く見積もりすぎていた。

1492年8月3日、コロンブスは3つの船(主要船のサンタマリア号、カラベルのニーナ号とピンダ号)で航海に出た。2~3か月の航海の予定であったが、実際は6か月間も航海した。コロンブスは2冊の日記をつけており、1冊は本当の距離を記録し、そしてもう1冊は短い距離を記録した偽の日記だった。コロンブスたちの船は途中で物資が不足し始めたため、特に金と煙草を求めて、ヒスパニオラ島(現在のハイチ島とドミニカ共和国)やキューバ、ジャマイカのあたりを航海したことにより、アメリカ大陸を発見した。コロンブス達がその土地に上陸した時、原住民達は彼らをとても歓迎した。しかし、コロンブス達は歓迎よりも金と煙草が欲しかったので、原住民達を非道に扱い、最終的に奴隷にした。

実は、コロンブス達は、自分たちはアジアの中のインドに上陸したと思い込んでいたため、原住民たちをインディアンと呼んでいた。このことにより、現在もアメリカ原住民は、インディアンと呼ばれている。

線引き

コロンブスが発見したアメリカ大陸の土地の所有権をめぐって、スペインとポルトガルが敵対した。1493年、スペインとポルトガルはこの諍いに決着をつけるため、当時のローマ教皇・アレクサンダー6世に決断を求めた。すると、教皇は世界地図を広げ、北アメリカ大陸の真ん中に上から下へ線を引いた。そして、スペインに西側を、ポルトガルに東側を与えた。ポルトガルは意義を唱え、また論争になったが、境界を西へ1175マイル移動させることで決着し、両国はトリデシリャス国際条約を結んだ。ポルトガルが土地を多く所有することとなった理由は、「我が国が大陸を発見するために最初に出航したのである」と主張したためである。この境界線の移動により、現在でもブラジルではポルトガル語が使われている。

さらなる探検

1502年、探検家アメリゴ・ベスプッチは、ヨーロッパから南アメリカ海岸までを航海した人物である。そして、彼は、アジアに行くための航路の途中に、立ちはだかる大陸があって、アジアへ行くのは至難の業だと、誰よりも早くから主張していた。アメリゴの船に一緒に同乗していたドイツの地図作成者は、航路に立ちはだかる大陸をアメリカと名付け、地図に書き込んでいた。

1513年、ヴァスコ・ニュネズ・デ・バルボアは、アメリカ大陸に上陸し、西に進むことによって、最初に太平洋を目の当たりにしたヨーロッパ人となった。太平洋という名前は、「穏やかな海」という意味である。

1519年、フェルディナンド・マジェランは、スペインを代表するポルトガル人の探検家だった。彼自身はフィリピンで殺されてしまったが、残された彼の乗組員達は必死でヨーロッパに戻った。そして、彼らの航海してきた航路が、地球を一周していることが分かったのである。

コロンブスの交換

1万年近く、アメリカ大陸とその他の大陸の間では、往来がなかったため、何の混ざりけがなかった。しかし、ヨーロッパ人は、アメリカ大陸からとうもろこしや煙草、ココア、じゃがいも等を持ち帰り、アメリカ大陸には牛・豚・馬などの家畜と、小麦・大麦・ぶどう・玉ねぎなどを持ち込まれたことにより、植物・動物・細菌・ウィルスが交換されてしまった。天然痘や麻疹、インフルエンザは当時、ヨーロッパ特有の病気だったが、アメリカ大陸に持ち込まれてしまったため、免疫を持たない地元住民は簡単に罹患し、中央アメリカだけでも100年間の間に約2000万人の人々が亡くなった。この大きな生物学的交換は、コロンブスの交換と呼ばれ、歴史的に重要な出来事である。

征服者

スペインで新しく探検隊のヘッドなった者とその部下たちは、アメリカを征服して、定住しようと考えた。そのため、人々をキリスト教へ改宗させ、見つけた宝物の20%を返礼すると約束し、王や女王から資金を調達した。しかし、本当の目的は、交易により、より多くの金を得ることだった。

1519年、ヘルナン・コルテスが、馬と大砲、そして約500人の兵士を連れてメキシコに上陸した。この時、マリンチェロという地元の女性の助けを借り、アステカ人に自分たちと同盟を組むよう説得させた。コルテスらは、皇帝・モンティズマから、人間を捧げものとして差し出せと言われ、不快に感じていた。

皇帝・モンティズマは、コルテスらの輝く鋼の武器や馬を見て、もしかしたらコルテスは、神・ケツァルコアトルかもしれない、もしくは、神がコルテスらを自分たちのところに送り込んできたのかもしれないと考えた。コルテスらをテノティテトラン(アステカの首都)に迎え入れた後、逆に彼らに宝物を贈った。そのため、アステカ人が金を沢山持っているとコルテスらはふみ、皇帝・モンティズマを捕まえ、捕虜にした。

1520年6月30は、悲しい夜と呼ばれている。テノティテトランの人々は、コルテスらと、彼らに協力した者たちを首都から追い出そうと戦った。その戦火の中で、多数のスペイン人が殺されたが、皇帝・モンティズマも一緒に殺されてしまった。しかし、翌年1521年5月、コルテスはさらなるスペイン兵とともにこの地に戻り、新しいアステカの皇帝を殺し、さらにテノティテトランも破壊した。そして、コルテスらは、その瓦礫の上にメキシコ・シティーを建てた。

1532年、フランシスコ・ピザロは、南アメリカの海岸に着いた。ピザロは200人の部下と共に、インカの皇帝・アタバリバに迎え入れられた。しかし、ピザロはアタバリバを捕虜にし、皇帝と引き換えに金をよこせと言った。しかし、金を手に入れた後、アタリバリバは処刑されてしまった。そしてその後ピザロは、2年間で、現在のペルーである2000マイルもの領地を征服した。

なぜ、コルテスやピザロは、力を持つ帝国を征服することができたのか?それは、彼らの武器、鎧、馬が、地元民には神のように光って見えたからだ。それが、戦いのメリットとなり、敵の不意を打つことができた。また、今まで皇帝に虐げられていた地元民たちが、スペイン人をサポートしたからだ。

さらに、大きな理由として、ヨーロッパの病気である天然痘が、スペイン人とともに上陸したため、アステカやインカの人々はほとんど死んでしまった。

他の有名な探検家

1513年、ファン・ポンゼ・デ・レオンが、アメリカに上陸し、現在のフロリダ辺りを探検し、その土地をフロリダと名付けた。フロリダは、初めてスペインの植民地となった。

アルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカは、フロリダに向かう途中の1528年、現在のテキサスで立ち往生した。実は、彼は、地元住民の捕虜となっていた。約6年間も捕虜として生活したが、その後メキシコに逃げることができた。

1540年、フランシスコ・バスケス・デ・コロナドが、現在のニューメキシコに着いた。彼は、伝説であった黄金の七都市を探して旅をしているところだった。(しかし、見つけることはできなかった。)

1541年、エルナンド・デ・ソトが、初めてミシシッピ川を渡った。

1598年、ファン・デ・オニャーテが、ニューメキシコに都市を建設し、牛や馬を持ち込んだ。

アメリカ大陸でのスペイン社会

1524年に設立されたインディアス枢機会議を通して、スペイン国王は2人の総督に会った。それぞれは、ニュースペイン(中央アメリカとその周辺)と、ペルーを任されていた。そして、彼らは、エンコミエンダ法を作り、地元住民への課税や、労働を強要できる許可を開拓者たちに与えた。

王の道と呼ばれるメキシコからサンタフェまでの道・エル・カミーノ・リアルによって、移住者の多くが移動した。彼らの居住区の町周辺には、大農場や大農園が作られ、コーヒー、綿、たばこ、砂糖などが栽培された。この事業には、多くの働き手が必要だったが、ハードな労働によって、多くの働き手が死んでしまった。

社会ヒエラルキー

上層:スペイン半島出身で、土地や地位を有する実力者たち。彼らの人数は少なかったが、全ての権力を握っていた。

次層:スペイン人の両親から生まれた最初の世代とされるクレオール人ら

次層:スペイン人とアメリカ原住民の混血であるメスティーゾたち

次層:アメリカ原住民

最下層:アフリカ人奴隷

バルトロメ・デ・ラス・カサスと新しい法律

バルトロメ・デ・ラス・カサスは、1502年にカリビアンに来た神父だった。彼の仕事は、アメリカ原住民を奴隷にするための新しい法律を作り、スペイン政府に貢献することだった。しかし、彼はアメリカ原住民への不当な扱いに対して異議を唱えた。しかい、彼は奴隷制度を終わらせることができなかった。なぜなら、スペイン人は、アメリカ原住民を奴隷にするのをやめ、代わりにアフリカ人を奴隷にするようになったからだ。

北西航路

探検家たちは、アジアと交易をするため、大西洋から太平洋へ抜ける航路を探していた。

1497~1498年、ジョン・カボット(イギリス支持のイタリア航海士)が、カナダのニューファンドランドに上陸した。カボットは、アジアに着いたと思ったので、今度は日本に向けて出港した。そして、その後消息不明となってしまった。

1524年、ジョバンニ・ダ・ヴェラッツアーノ(フランスによって送られたイタリア人)は、カナダのノバ・スコシアを探検した。

1535年、ジャック・カルティエ(フランス人)は、セントルイース川を探検し、フランスのため、現在のカナダを奪った。

1609年、ヘンリー・ハドソン(オランダによって送られたイギリス人)は、現在のNYにあるハドソン川を探検した。翌年、彼はイギリスを再度出発し、今度はハドソン湾を発見した。発見後、彼はさらに進み続けたかったが、船の乗組員たちは反抗した。そして、その後、彼らは海上で難破したか、もしくは殺されたかのどちからだろう。

スペイン無敵艦隊

当時、ヨーロッパの各国が競争をしていた理由は沢山あった。しかし、スペインとポルトガルの間で取り決められたトルデシリヤス国際条約により、スペインがアメリカ大陸の東半分を、ポルトガルが西半分を所有することになった。他のヨーロッパの国々は条約に参加しなかった。なぜなら、探検家がもたらす利益がどの程度かが分かったからだ。重商主義の経済理論では、国家の力はその国の財産によると言った。ヨーロッパの国々は、原材料を輸入して製品を輸出し、売りさばく新しい市場を獲得するため、植民地獲得の競争をさらに加速させた。プロテスタント改革も競争状態となった。プロテスタントであるエリザベス一世が、1558年にイギリスの女王になった時、アメリカから金銀を自国へ輸送していたスペイン船(スペインは当時カソリック国家だった)を攻撃するよう、海軍に命令した。彼女は、植民地を作る費用を負うことなく、新しい市場から財を得たかった。この攻撃で最も活躍したのは、フランシス・ドレーク卿だった。イギリスのため、スペイン船から略奪をした。1588年、スペインのフィリップ王は、その返礼として、スペインの無敵艦隊を130もの船団でイギリス征服に向かわせた。イギリス海峡で戦った2つの海軍だったが、最終的にイギリスが勝利した。スペインは以前の絶対的力をもう持っていなかった。それを知ったヨーロッパの国々は、アメリカでの新しい市場獲得のため、スペインを攻撃するようになった。

最初のイギリス植民地

1500年の終わり頃、探検家ウォルター・ローリーは許可を貰い、1584年に現在のノースカロライナにあるロアノーク島に植民地を作った。その後、イギリスに一旦戻ったが、3年後再び植民地を訪れると、植民地の人々は消えていた。アメリカで最初に生まれた白人のバージニア・デアは、ジョン・ホワイトの孫だった。彼女や他の移住者に一体何が起こったのか、それは今だ謎のままである。その植民地は現在、ロスト・コロニーと呼ばれている。

フランスの植民地

1608年、フランス人の探検家サミュエル・ド・シャンプランは、ケベックに交易所を作った。ケベックでは、毛皮と貴金属品が活発に取引された。地元のアメリカ原住民は、ビーバーなどの動物から毛皮を作る仕事をしていた。

カソリック系神父たちも、ニュー・フランスと名付けられた植民地に移住し、地元の者たちをカソリックに改宗させた。

1682年、ロベール=ガブリエ・ド・ラ・サールは、ミシシッピ川全域を航海し、現在ルイジアナと呼ばれる南端の地域を、フランスの領土とした。そして、現在のニューオリンズである一帯に交易所を作った。また、1700年代には、フランスが、現在のデトロイト、ミシガン、セントルイス、ミズーリに交易所を設けた。これにより、北アメリカのケベック州や南ルイジアナ州では、現在もフランス文化が華やいでいる。

オランダの植民地

オランダは、ハドソン川一帯を自分たちのものだと主張し、1614年、現在のアルバニーの近くにあったフォートナッソーに植民地を作った。

オランダ西インド会社は、1621年、ハドソン川に沿ったニューネザーランドに植民地を作った。この会社は、自国政府からサポートされてもいたが、特に投資家たちから探検や交易の予算を調達していた。政府もまたこの会社に、地元民と交渉する許可を与え、植民地を広げるように指示していた。ちなみに、オランダ東インド会社は、別の会社である。

1626年、ピータ・ミニュイットは地元民からマンハッタン島を購入した。島の値段は約24ドルだった。

現在のNYには、ニューアムステルダムと名付けられた植民地が作られ、そこでは毛皮の取引が活発に行われたため、毛皮交易の中心的な場所となった。

まとめ

①ポルトガルは、仲買人を省いてインドと直接交易したかったため、探検家を出航させた。

②クリストファー・コロンブスが資金調達に苦労したのは、当時ヨーロッパから西への航路がどれぐらいの距離か誰も知らなかったからである。

③ブラジルでポルトガル語が話されるのは、スペインとポルトガルの間で取り決められたトルデシリャス国際条約により、もとはポルトガルの植民地だったからである。

④周航するとは、地球1周航海することである。

⑤半球と半球の間で行われた植物、動物、細菌などの交換のことを、コロンブスの交換と呼ぶ。

⑥スペインの征服者たちは、たった数百の兵士だけで、アメリカにあった帝国を簡単に征服することができた。それは、彼らが持っていた技術や装備に地元民が驚いたことや、帝国で不当な扱いを受けていた地元民がスペイン人側についたことにより、実現した。

⑦北西航路は、ジョン・ガボットがカナダのニューファウンドランドに上陸したことと、ヘンリー・ハドソンのハドソン川探検によって、発見された。

⑧スペインはかつての勢力が衰え、無敵艦隊と言われた船団でも敗北したため、トリデシリャス条約や植民地の独占を保持する力がなかった。

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