古典不要論からみる悪しき概念「実学」

こんにちは。
なにかと定期的に古典(古文・漢文両方とも)不要論が出ます。
今回は古典不要論に対して反論をするとともに、古典不要論の根底にあるであろう「実学」という考えがいかに愚かしいものかについて書いていこうと思います。

1、古典不要論について

Ⅰ 古典不要論の立場の言い分と思われるもの
ア、たしかに古典は教養として必要かもしれないが、古典は大学で研究をする上で文学部の一部の学科を除いて使われないだろうから高校において時間をそこまで割くべきではない
イ、古典は理系科目や英語のように仕事の上で道具として使わないだろうし、カネにもならない

大きくこの2つだと思います。程度差はあると思いますが。
ア、は古典はたしかに一部の人にとって必要であったり教養として大事と一定の理解を示しながら、でも俺たちには関係ないしなぁという立場。
イ、は今回のタイトルにもある「実学」を根底とした立場で、「役に立たないものは勉強しなくていい」とすらいう人までいます。

Ⅱ Ⅰに対する反論

ア、に対する反論
・古典というものに触れることで古典研究に興味をもつ可能性がある。
その為、中高時代に多くの科目や分野にさっと触れることが重要と考える。
それに研究で役にたたないというのであれば実技科目等どうなるのでしょうか?もう高校が大学受験の科目だけやる予備校みたいな存在になってしまいます
・次項で述べるが研究に繋がる場合もある。

イ、に対する反論
・ア、に対する反論の2点目と併せて述べるが、古典は研究に関連したりビジネスチャンスでもある。
具体例を述べましょう。
まず、東大地震研では3・11以降、古文書の解読に精力を注ぎました。
詳しくは以下のプレスリリースを参照。

http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/wp-content/uploads/2019/03/68e47968df85c48db3c3c50e38611cd4.pdf

古文書を調べることで災害の記録というものが浮かび上がってくるわけで、地質年代の測定やシュミレーションだけの情報に加えることで精度が向上します。
東大地震研以外でも北九州朝倉豪雨の際、寺の古文書には過去の同地域の災害の記録が記されていたなどその手の情報は枚挙にいとまがありません。

でもそれって災害系だけでしょ?って?
いやいや。他にもありますよ。
日食や月食に関しての記録(古代では凶兆とされたため記録が残っている)、
漢方のバイブルとされる漢籍『傷寒論』やそれの関連書籍の研究。
漢方の古文書を調べることでなんと2015年には屠呦呦がクソニンジンから抗マラリア薬成分を見出し、ノーベル医学賞を受賞している。

でもそれってビジネスに関係ない?
いやいやありますよ。
たとえば凸版印刷はくずし字の解読システムでアプリをつくりましたし、
災害関係に関しては古地図をもとにした産業ができてきました。

他にも私や読者諸氏が知らないだけで古典が研究・ビジネスに結びついているケースや現在進行形で進んでる、またまだ見つかってない繋がりがあることでしょう。

つまり、「古典は文学部じゃないから自分の研究に関係ない、古典は自分のビジネスに関係ない、金にならない」というのは知識の浅さゆえに起きていることにすぎません
(なーんて偉そうにいってる私もそこまで学識が深いわけではありません、なんでもは知らないわ知ってることだけ。念のため)

2、「実学」というもの

そもそも実学とはなんでしょう?
古典を役に立たないという人、というか話を広げると基礎研究なども役に立たないという人にとって
「その人でもカネになると理解できる程度のもの」でしょうか?
最近だとビッグデータとかAIとか深層学習ですかね。
でも10年20年前にそういうものがカネになると多くの人が理解していたかというとNOです。
ここ数年でカネになるとわかって騒ぎはじめているだけです。
そして、古典に関しても前述のように研究にもビジネスにもなるということが分かり始めています。

「カネになるものは実学!それ以外はやらんでええ!」という姿勢でいたら、自分が思いもしてなかったものが研究やビジネスにつながっているという感じです。
じゃあ何、ビッグデータやAIに加え、古典も「実学」の中にいれればいいのか?
問題解決としてそれはあまりに雑すぎます。

中国の故事で函谷関の鶏鳴というものがあります。
ある金持ちのところにニワトリの鳴きマネが得意だった客人がいました。
これだけきくとそんな特技なんの役に立つ?とまさに現代日本の「古典」のような扱いでした。
しかし、あるときその金持ちが函谷関という関所から出られないという危機をニワトリの鳴きマネによって救います。
(いろいろ端折ったので詳しく知りたい人はぐぐってください)
このことから、函谷関の鶏鳴とは「一見役に立たないように思えるものでもいつかは役に立つ」という意味の言葉になりました。

僕は研究やビジネスというのは結局この函谷関の鶏鳴のようなものだと思っています。
この記事の前半で古典って実は役に立つんだぜ!すごいだろ!みたいなことを書きましたが、それは僕がたまたま知っていただけであって僕が知らない・興味をもってない分野で「函谷関の鶏鳴」がおきてるはずです。

「じゃあ何?アレもコレも無限に勉強しなきゃいけないの?」
それが人生は常に勉強と言われている部分だと僕は思います。
ですがひと一人の人生を全部費やしたところで得られる分野・領域というのは限られてます。
もう終わりだみぃ・・・
いえ、それこそが個々人の個性を活かすところであり研究やビジネスのチャンスです。
人の数だけ経験や興味・知識のある分野・領域は違うわけですから、
「実学」というレッドオーシャン的な既存的な誰でもわかる手法・技能だけでなく、コレとアレを組み合わせると・・・という、その人がもつモノの化学反応によっていろいろなものが生まれるわけです。本来は。
それを実学、実学といって大した数もない限られた分野の勉強だけをしていたらその化学反応は起きなくなってしまいます。

その化学反応をするために中高時代にいろいろな教科・科目・分野を学び、興味のあるものを見つけ、
大学では教養科目や選択科目、自由科目でさらに知見を深めるという風にできていると僕は考えています。
しかし大学でも特に法学部、医学部は受験予備校と化していて前述の化学反応を起こす機会が少なくなっているように見受けられます。
※それについては僕の以前書いたこの記事参照

https://note.com/kozuetakashina/n/n332187586f50



まとめ
古典不要論とは古典そのものに限らず、「実学」という余人が分かる程度のレッドオーシャンレベルの手法・技能のみをよしとする、研究・ビジネスにおいて好ましくない考えが根底にあるため、
自身が古典を使うか否かはさておき看過できるモノではないという意識をもつことが大事だと僕は思います。


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