ケイト・ボーンスタイン「隠されたジェンダー」

カリフィア「セックス・チェンジズ」での紹介に興味をそそられて読みました。訳者は筒井真樹子氏。一度お会いしたことがありますが.....まあ確かに「第三の性」陣営っぽい方ですね。ただし、この方が「訳者によるノート」で書いているように、ボーンスタインのかなり曖昧な立場と筒井氏の立場が必ずしも一致するものでもない、とは断っています。

というかね、カリフィアの紹介を読むと、「ハードに第三の性の立場を論じつくした、理論的著書」みたいに感じるのですが、そんなもんじゃ、ありません。軽いエッセイに近いものです。ですから、著者の立場もかなりいろいろ中で動揺し、相互に矛盾しあうような著者の「俳優的な」アイデンティティに引きづられた本の印象を受けるのです。言いかえると、カリフィアの「ハードで現実的な政治主義」が、ボーンスタインの「曖昧で空想的な、お気楽な理想主義」を自分のフィールドに引き付けてバッシングしている、というのが実相でしょう。実際、この本を読み直したあとで、改めてカリフィアの該当箇所を読み直すと「大人気ないくらいに、辛辣」という印象の方が強いのですよ(カリフィアの訳者さん、どうしたらあんな感想が言えるのでしょうね....)。

ですから、この本を理論書みたいに読むのは、まあ止めた方がいいでしょう。一言でいえば、

ボーンスタインはSRSを受けて(白人中産階級らしく、きっちり医療保険の支払いを受けたんじゃないかしら?)、一応女性でパスする見かけがあって、それでも「第三極」「第三の性」を主張する

というご本人の立場からして、かなり曖昧なものを含んています。とはいえ、「属人論理」で人を叩くのは私の趣味じゃありません。

トランスセクシュアルであるためには、性器嫌悪がなければならないと思われている。確かに、性器嫌悪をもつトランスセクシュアルがいて、性器を変えようとするのは確かである。しかし、私はトランスセクシュアルが「自然に」、生まれ持った性器を嫌うのだとは思わない。その証拠を見たことがない。嫌うように教えられなければ、自分の身体の一部を嫌ったりしないのである。

それでも、ボーンスタインはSRSを受けています。いや、SRSにはちゃんとしたメリットがありますし、それは医学的なものでも社会的なものではなくて、心理的なものなのですよ。まあ私も「強く嫌悪感」があったわけではないのですが、SRSを受けて「変わった」のを見ると、強い満足感があることを否定できないです....ですから単に「医療化された現象」とこれを貶めるのは、ボーンスタイン自身に不満感があるからなのでしょう。

で、この方はやはり「レズビアン」を隠さないのですね。やはりMtFで女性が好き、となると「ふつうじゃない」というような扱いを受けることが多い、のは事実です。そうすると、「女になったけど、女じゃない」というダブルバインドなアイデンティティをこじらせることにもなるのでしょう。私に言わせると、これは「先回りのしすぎ」なのではないのでしょうか....「女が好きな女」であることが「女であることの資格から外れる」と、ボーンスタインは自身の政治的要請によって、そうしたがりますが、これは無益な試みのように感じられてなりません。で、強引にボーンスタインによって「女から引きはがされたレズビアン」が、再度「アウトロー」「盟友」として召喚されるわけです。

セックスとジェンダーのアウトローは、盟友を必要としてた。力づけてくれる劇場は強力なパートナーだった、。皆が自由という共通の目標に向かって力を合わせていた。しかし、クィア演劇にさまざまな人が参加できたことは、太古に遡る。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、SM者はみな、原初の文化の呪術的な、変容の儀式に起源を有する。そこでのシャーマンは、その時代の癒しの者であり、詩人だった。娼婦であり、聖者だったのである。

美しいヴィジョンを語るのですが....いやこれを政治綱領にしようというのは、さすがにムリがありすぎるというものでしょう。

ここで「トランスジェンダー」という言葉をより包括的なものとして提唱してみよう。これを、「ジェンダーを侵すもの」を意味するものにしよう。ジェンダーの規範や規則、制約を打ち破る人のグループをつくることになる。ちょうどよい大きさの分担を行うことができる。レズビアンやゲイを含める必要があるのは、トランスジェンダーである。より包括的なカテゴリを必要としているのは、トランスジェンダーの方だからである。

で、ボーンスタインは、ゲイ・レズビアンによるトランスバッシングを諫めることになるのですが、まあカリフィアも「このユートピア的ヴィジョンは、ゲイメン・レズビアン・トランスセクシュアルらが実際に同一の政治目標を共にするのか、という論点を避けている」とその現実離れをツッコむわけです。つまり

ストレートの文化は、ゲイのアイデンティティの公的な表現の多くを、ジェンダー侵犯(トランスグレッション)として解釈する。彼らにとって、わたしたちは皆、同じセックスージェンダーというゴミの山の一部なのである。このような実践的な要点こそ、もっとも簡単にクィアやトランス活動家(アクティヴィスト)を団結させることができるのだ。

とあくまでも「仮の、共通の敵に備えた、実践上の団結」に留まるものだとしかカリフィアは見ていないのです。このカリフィアのシビアさに私は一票! 「第三極」という「ゴミの山」による「団結」には、たかだか戦術上の意味しかないのでしょう(私も「戦術」を否定するつもりはありません)。しかし、それを大局的な政治目標と取り違えるのは....いやSRSを受けて埋没しようとするTSに、「トランスジェンダー・第三極としてのアイデンティティを持たせよう」というのは、それこそ迷惑がられるでけのことです。どうもボーンスタインの理想主義は、理想を越えた「押し付け」の部類になるいやらしさも欠いているわけでもないでしょう。それこそどんな「理想主義」も備えているように、ね。

つまり制度から排斥され除外された「アウトロー」というアイデンティティは、逆説的ですがきわめて「魅力的」なのです。おばさまの子供の頃って東映ヤクザ映画が全盛期でしてね....兄ちゃんたちが映画館から肩怒らせて出てきたものですよ。ドロップアウトした異端者であり、例外であり、トリックスターであり、道化であり、平凡な日常に回収されない「異物」であるようなスタンス...いやいや憧れ、は判ります。しかし「異端者」がその「異端のプライド」を保ち続けるためには、表面的に「異端の正統への回収」を主張して求めたにしても、それが実現されること自体が、自身のアイデンティティを喪失させるという逆説に耐えなくてはならない、というアンビバレンツに悩まされるのです。だからこそ、「異端者」にとってその主張は「演技」にしかならないのです。「叶わない方がいい望み」をあえて主張する欺瞞に陥るのです。

ですから、「ジェンダー・アウトロー」という立場も、やはりきわめて演劇的なのです。まあ、ボーンスタイン自身演劇人ですし、そういう「演劇の構造」をやはりこの本自体が備えています。

なのでボーンスタインという人は、この本を読むかぎり、「自分自身の宣伝家」みたいな立場に陥っているようにも感じるのです。まあ仕方のないことなのですがね。でこの本は、自身の戯曲「隠されたもの・ひとつのジェンダー」を収録しています。

私は演劇人としての経験を、自然主義とアリストテレス的な演劇観の下で積んだ。私はユージン・オニール、テネシー・ウィリアムズ、リリアン・ヘルマンと、その一座を見て育った。心の琴線に直に響いてきて、ドキドキする心臓をさらけだすような演劇。一方で私は、帽子からうさぎが飛び出るような魔法を探し求めていた。そういったものは、ブロードウェイ・ミュージカルの、舞台上の仕掛けや、人が感情が高ぶって突然歌いだす場面に見出した。

と自身の経歴を振り返ります。保守的な演劇観で育ったことを隠しませんし、「ブレヒト、アルトー、ジャリ、ベケットの魔術的な非現実主義とも苦闘し」最近まで馴染めなかったと、意外なくらいに保守的なルーツを告白します。まあ、その戯曲「隠されたもの・ひとつのジェンダー」を読めば、既成品のシーンをパロディ化して、バーレスク流につぎはぎしたものだ、というのも見てとれます。別役実とか唐十郎とか比較しても、ぎごちないし古色蒼然、というのは言っちゃいけないかな?

いやね、以前関西クィア映画祭でノルウェイのトンイェ・ギェビョンという方が主催する「The Hungry Hearts」という女性パフォーマンスグループのパフォーマンスを見たことがあるのですが....いや「クィア演劇」ってなかなか見るのが難しいこともありますが、あまり期待しちゃ、いけないような気もするんですよ。いやこれも、単に脱いだりするカラオケ歌謡ショーみたいなもので、エンタメ未満にしか感じなかったのです。まあ、ドラァグ・クイーンのパフォーマンスも何回も見てますが、あれも口パク歌謡ショーですし。

なので、あえて言いますが、少なくともニッポンならば、宝塚歌劇やOSKを基準点として、それなりの完成感のあるパフォーマンスか、あるいは「完全に比較されない別アプローチ」をしないかぎり、「クィア」を売り物にするパフォーマンスは「恥ずかしい」ものでしかないのでしょう。もちろん宝塚もOSKも「商業的」で、とくにクィアな主張が舞台の上に上がるわけではありません。しかし、その修練はホンモノで、「思想性がある」パフォーマーの修練のいい加減さとは雲泥の差があります。しかも、宝塚やOSKなら「ジェンダー論を言挙げしない」にもかかわらず、その「パスティーシュ性」によって、ジェンダーを完璧に相対化してプレゼンテーションして見せるのです。いやこれにはどうやったって、勝てないのですよ。

私たちが独自のコメディと、お笑い芸人を擁しているのを知るのは強みである。

とボーンスタインもアメリカに何人かのトランスの芸人がいることを認め、限定付きでもありますが称賛しています。これだって、日本の「オネエ芸能人」のメインストリームでの存在感と比較したら微々たるものでしょう。美輪明宏から始まって、カルーセル麻紀、ピーター、美川憲一、はるな愛、マツコ・デラックス...で、最近はどうも氷川きよしさえこっちに来つつある(?)なんて話もあるくらいですね。まあ、皆さんそれぞれのセクシャリティには違いがあって、一括で語るのは難しいのですが、

この「オネエ芸能人」の存在感、および宝塚や歌舞伎という異性装演劇の存在によって、ボーンスタインの言うような「第三極」があるのか?

とあくまでキマジメに問うのならば、答えは言うまでもないでしょう。答えがNoならば、じゃあ「なぜか」を考える必要があるのでしょうね。アメリカでボーンスタインが「第三極」の成果として挙げているような状況は、事実上日本ではすでに実現されていて、しかもそれが全然「ジェンダー解放」の方向には向いていないし、そうなる気配もない、というのを冷徹に評価すべきなのです。

いやね、トランス関連の集いには何回も出席しているのですが、その場でヅカの話とかBLの話とか、出たこともないのですね。もちろんヅカやBLが「トランス・カルチャーだ」と思っているわけでもないのです。幅広い女性文化の一つとして、そういうものをトランスが楽しむ、というのもなかなか有益なことなのです。MtFなら、こういうニッチな女性の話題に詳しいことは、女性と趣味のつながりができて大変イイことなのですから、メリットあるんですけど.....

つまり、私が言いたいのは、バトラーの時にも言いましたが、「演劇」あるいは「パロディ」という方法論は、それが「仮装」であり「保留」であるがゆえに、ジェンダーを打ち破る方法論にはなりえない、ということです。言いかえると、「演劇」ではなく「パフォーマンス」を、「パロディ」ではなくて「パステーシュ」を、というのが、私の見解なのですよ。

ボーンスタインも「クィア演劇とは」を自作で宣伝しちゃってますから、それに倣って私も「パフォーマンス」を自作で例証しちゃってもいいんじゃないかしらね。

集まった観客に、ネクタイを配ります。そして、看護婦の服装のパフォーマーが、そのネクタイの結び方を観客に講習します。そして、ハサミを持ったパフォーマーが、ネクタイを結んだ観客のネクタイを切って回ります。その時に、観客の耳元にその観客の性別を否定するような言葉をささやきます。見るからに男性的な観客には「あら、あなた女の子になったらいいって、周りから言われたことありませんか?」、女性的な観客には「あなた男らしくって素敵だわ!女の子にモテるんじゃない?」こんな調子ですね。

つまり「今付けているネクタイを切られる」という体験だけは、まぎれもない「体験」なのです。これはパロディではありませんし「演劇」ですら、ありません。「仮象だから」での逃げ場のない「体験」なのです。ホント皆さん、困ってました....


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