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夜の南海電車で

初夏の夜。難波発の区間急行の中に私とその人はいた。車内は冷房があまり効いておらず、二人ともじっとりと汗をかいていた。私たちは一緒に映画を見た帰りだった。映画の内容はもう思い出せない。おそろしく不細工なゾンビが出てきたような気はする。

今度はいつ会える?

その人は何度も聞いてきた。私はもう会いたくはなかった。他に好きな人がいたからだ。けれど、その人を傷つけてしまうことが怖くて、曖昧に頷いたり首を傾げたりを繰り返していた。もう会わない。その一言がどうしても言えなかった。

じゃ、予定がわかったら連絡して。待ってるからな。その人はそういうと、ひらりと手をあげて電車から降りていった。

後ろ姿を見ながら、私はふうっと大きくため息をついた。その瞬間、前に座っていた白髪頭の男性と目が合った。グレーのスーツをかっこよく着こなし「紳士」という言葉がしっくりくる。紳士は私をじっと見つめ、こう言った。

自分の気持ちを大切にしなさいね。

驚きと恥ずかしさで私は返事をすることができなかった。窓の外には、PLの塔がそびえ立っている。暗やみの中で光る白い塔。いつもなら、もうすぐ家だと知らせてくれてホッとするけれど、その夜は違った。鋭く心を突き刺してくる。扇子でパタパタ扇いでいる紳士とは目を合わさないように、私はそそくさと電車を降りた。

結局、その人からの誘いを断わり続けていると、プツリと連絡はこなくなった。好きな人にも告白することはできなかった。

あれから長い年月が過ぎた今も、紳士の言葉がふいに甦ってくる。

自分の気持ちを大切に。

自分の気持ちを大切に。












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