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埃ひとつないばあちゃんの仏壇

ゴールデンウィーク中盤、いつも通りダラダラ Youtubeを眺めていると、偶然長渕剛のとんぼがthe first take のプレミア公開で流れてきた。別に僕は長渕剛のファンでもないけど、見てみるかーと軽い気持ちで眺めていた。ご存知の方もいるかもしれないが、彼のfirst takeは10分中6分も語り続ける一見奇異なものだった。「めっちゃ話長えな」と内心思いながらもせっかくここまできたんやし、歌うまで待ってみるかと思って聴いていた。
実際に彼が「とんぼ」を歌い出した時、「そういえば、ばあちゃん長渕剛好きだったよな〜」とふと思い出した。ちょうど祖母の部屋で歌を聴いていた僕は、少し音を大きくして祖母に聞こえるようにした。
「そうだ、もうばあちゃん死んでから半年が経ってんのか。」


昨年の9月ごろ、祖母が他界した。正直な話、祖母が他界したことに驚きはなかった。というのも祖母が他界する何ヶ月も前から、言ってしまえば植物状態のようなものになってしまった。最初は膝が痛いという歳のせいで生じる悩みだったが、膝の手術が失敗し、脳梗塞。脳梗塞の手術が失敗しほぼ植物状態になり、話すことも動くこともできなくなってしっまった。その間数週間だった。ワインバーで働いて、トイレでスマホをいじってサボっていた時、母から来た突然の連絡。「ばあちゃん脳梗塞になってこれから手術です」の一報。ああ、こんなにもあっけないのかというのが感想だった。もちろん心臓が絞られるような嫌な緊張もあったが、あっさりと人はいなくなるのかという驚きと、不思議と風通しの良い喪失感があった。その日の東京の夜風は梅雨なのにやけに冷たくカラッと感じたのを今でも覚えている。

急性脳梗塞の手術で祖母は一命を取り留めたものの、祖母の肉体は魂の入った箱になってしまった。祖母はもう明るく友達と電話で話すこともないし、テレビの前で歓声を上げることもないし、僕と喧嘩することもないし、大好きな焼酎も飲むこともできない。祖母は病室のエタノール臭い、不吉なぐらい白く明るい病室で、石のように静かに眠り、時々たんを詰まらせ介抱され、カテーテルを通して栄養を摂るだけになった。

先ほど植物状態といったが、正確にはそうではない。祖母からは言葉を発することはできないが、視覚・聴覚は正常に機能していて、僕たちが話しかけたことは理解できていた。

祖母が他界する1ヶ月前くらいに、兄が婚約したことを寝たきりの祖母に伝えたことがある。その時、祖母の口からは「おめでとう」の言葉は出なかったが、涙を流していたのを僕は鮮明に記憶している。昔からお婆ちゃんっ子だった僕は、箱になってしまった祖母に会うことを避けていた。もう僕が知っている祖母はいないのだという現実を受け入れたくなかったから、祖母に会うのを避けていたのだ。

実際に兄が婚約を伝えたその日は、祖母が植物状態になってしまってから最初に会う時だった。初めて祖母の状態を見た時、僕は言葉を失った。あれだけ迷惑をかけ、お世話になっていたのに、祖母がどうしようもなくなってしまった時僕は言葉一つかけられないのかと無力感を感じた。その中で、悲しみなどが入り混じった複雑な思いを堪えながら、自身の婚約を伝えた兄を見て、純粋に大人だなと感じた。

婚約を聞いて涙を流した祖母は、すぐに痰を詰まらせ、咳き込んでしまった。しかし、その涙にも痰にもはっきりと祖母の喜びと感動を感じた。僕は明るかった祖母が箱になってしまった悲しみと、それでいて確かに目の前にある祖母の感情に触れられたという喜び、そして直感的にこれが生きている祖母に会える最後の機会なんだと感じ、色々感情が溢れてしまい嗚咽しながら泣いてしまった。

会ったその日は、祖母の転院日だった。寝たきりの祖母が看護師さん達に運ばれる時、筋肉は膠着しピンと張っている祖母の小枝のような足が見えた。
あれだけダイエットしないとねと言いながら好きなものを美味しそうに食べていたのにな、と哀しさと懐かしさが混在した感情になった。
「これが祖母に会う最期の日なんだろうな。」
再びそう思った。
移動用の車で、最後に祖母の頬に触れ
「またね。」と一言告げて、僕たちは病院を後にした。
迷惑なくらい照った日差しと、潤んだ瞳のせいで、眩しさで目が痛かった。

そこから1ヶ月半が経ち祖母が他界した。祖母の冷たくなった体を見ても不思議と涙は出てこなかった。それはあの日祖母に会った時に、祖母の死を確信し、覚悟を決めていたからかもしれないし、祖母が動きも話せもしなくなった時から、喪失感の閾値を超えていたからかもしれない。ただ、ご遺体を見ていないふとした瞬間に、僕が幼い頃の思い出や、揉め事が蘇り涙が込み上げた。やはり、20年も過ごしてきた祖母の死はひどく悲しいものに変わりはない。



祖母を失った悲しみは、実の息子である父が一番感じていたと思う。そうであるはずなのに、父は一筋の涙も見せない。一言も弱音を吐かなかった。普段は全くと言っていいほど名がよくないのだが、そんな悲しさを表に出さない父の姿を見て、父親らしいなと感じながらも、こんな時くらい泣いてもいいのになと思った。しかし、葬儀の際、父が別れ言葉をかけるときに言葉に詰まっている姿を見たり、火葬前に祖母の思い出の品を花と共に納棺する時に涙を流しているのに、無理に笑顔を作ろうとしている様子を見た時は僕も胸が詰まった。

祖母の火葬が終わり、骨になった祖母を見た時、父は喪失感からかより老けて見えた。膝の手術で入れた金具も、「これもばあちゃんだからな〜」と言って骨壷に入れていた。
「なんだかんだ、この金具も使うこともなかったけどな〜」
父がひきつった笑顔で冗談を言った。
火葬帰りの車での父は、妙に饒舌だった。
父は母とはよく喋るが、息子たちとは口数が少なかったので、彼はあの時僕たちと会話することで、祖母の死を考えないようにしていたのだろうと思う。
何十年も前にシングルマザーで育て上げてくれた、自身の母親を失ってしまったという状況は、僕のような”子供”には到底計り知れるものではなかった。


祖母の死からしばらく経ち、家に仏壇を置くようになった。
僕は毎朝手を合わせ、線香に火をつけ朝食を取る。
僕は毎晩手を合わせ、線香に火をつけ眠りにつく。

ある日、いつも通り線香をつけて寝ようと2階に上がった。その日はどうにも寝付きが悪く下にお茶を飲みに行った。

もう日付を回ろうとしているのに、祖母の部屋に電気がついていた。
「電気消し忘れたかな」
部屋の入り口にかかっている暖簾をめくり中を確認すると、父がいた。
「何してるんですか」
僕が尋ねる。
「閃光の日が消えるまで待ってんだよ、火事になるだろ」
父が無愛想に答える。
「そうか」
僕が返す。

その時はなんとも思わなかったが、父が祖母の部屋にずっといるのは今でも続いている。祖母の葬儀が終わり、勝手に父の中に残っていた悲しみは薄れていったのかと思っていたがそんなはずはなかった。全くもって実の母親を失った悲しみを表に出さない父は、家族がいないところでそっと母を失った喪失感に身を浸すのだ。
母を失った悲しみと、僕が知らない、知る由もない祖母への思いを抱き、祖母の部屋にある椅子に腰掛け日が跨ぐまで待つのである。
今まで父が顔にも言葉にも出してこなかった、祖母への思いに少し触れられたような気がした。

そういえば、祖母の仏壇にはいつも埃一つ乗っていなかった。


それでは、良い1日を。

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