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当事者が語るHIV感染症①

僕自身、あまり当事者が語る・・・的な内容をお話するなんてことをしたことがありません。なので、今回は当事者歴23年の僕が語るHIV感染症ってことをお話してみようと思います。

僕がHIVに感染していることが判明したのは1999年でした。初期症状として、風邪なのかなって思ったんですが、熱が出たのがなかなか治まらない状況がありました。そんな状況なのと1人暮らしだったので、母がうちまできてくれたことがありました。

で、何とか熱も治まり、その後何事もなかったのように過ごしていたんですが、手と男性器に違和感があった中で手の違和感がひどかったので、自宅付近の皮膚科のある大きい病院に行ってみてもらいました。そこで、梅毒に感染していることが判明しました。

それで、「Dr.からHIV検査してみますか?」ということを言われたので、っ検査をお願いすることにしました。

この時の検査はというと、通常の血液検査ではなく、皮膚科ということもあるのか、右手の肉片を取り検査することになりました。検査結果は1週間後ということになったのですが、その検査結果を聞くまでの待ち時間がすごい不安だったことだけは覚えています。また、この時、予約時間に遅刻してしまっていたのもあったので、患者さんが1人1人と帰っていくので不安でした。

検査結果は、HIVに感染している可能性があるというものでした。なので、HIV診療をしている国立国際医療センター病院(現 国立国際医療研究センター病院)への紹介状を出してもらって帰宅したのでした。それが1999年の春のことでした。

紹介状も当時の相方と一緒にちょっとだけ覗いてみたのですが、HIV感染の疑いがある内容が書いてありました。で、1999年3月に国立国際医療センター病院 専門外来(ACC)に行きました。診察の前にコーディネーターナースの方の問診みたいなものがありました。そこで、いろいろと聞かれたことを覚えています。(当時僕を担当してくれていたコーディネーターナースの方は、今では役職もついて研究関連のお仕事をされていますが・・・。)

国立国際医療センター病院に行ったときに、何と梅毒だけでなく『赤痢アメーバ』にもなっていることが判明してしまいました。でも、AIDSにだけはなっていなかったのは良かったなって今になって思います。

国立国際医療センター病院でHIVに感染していることが判明した際、2人の兄にHIVであることをカミングアウトしています。でも、両親にはHIVであることをカミングアウトすることが出来ていません。最近になってオカンから聞いたのですが、一番上の兄がいろいろ調べてくれて、両親にHIVのことを話してくれていたようです。また、この時、一番上の兄が調べてくれていた中に当時 国立国際医療センター病院にいらっしゃった青木先生のことを調べてくれていたのです。僕自身、青木先生と電話で話して、ぷれいす東京の生島さんを紹介してもらうことが出来ました。生島さんと電話で話をしたのが金曜で、翌日の土曜にHIV当事者の集まりに参加することが出来ました。なので、わりと早い時期にHIV感染の当事者に会うことが出来ているので、HIV感染の当事者が周りにいなくて・・・的なことがなかったのも良かったのかもしれません。なので、HIV治療の初期の頃に暗い気持ちにならなかったのは良かったかもしれません。

HIVの治療を開始する前に梅毒の治療を先にすることになりました。それが通常の治療よりもきつめの治療ということで1回に飲む薬の量がすごかったです。梅毒の治療はそれほどでもなかったのですが、赤痢アメーバの治療だけは副作用がひどかったのは言うまでもありません。なので、薬の副作用で気持ちも悪くなったりしていました。でも、何とか梅毒赤痢アメーバは治療を終えることが出来ました。

梅毒赤痢アメーバに引き続き、HIVの治療を開始することになるのですが、HIVの治療薬って高額なので障害者手帳の申請が必要になってくるということでした。障害者手帳を申請して、3級の手帳が取得できるCD4の基準値は同時は350コピーでした。

僕のCD4の値は350コピーギリギリだったので、Dr.からなんとか取得できるようにしますとのことだったので、申請をして1ヶ月くらいで無事、免疫機能障害3級の障害者手帳を取得することが出来ました。

HIVに感染した当時は東京に住んでいました。なので、免疫機能障害は3級も心身障害医療費助成の対象になっています。また、市区町村の制度として心身障害者福祉手当が免疫機能障害3級も対象となっています。(市区町村によっては4級も対象になっている場合があります。)

障害者手帳を取得したことにより、HIVの治療も始まりました。この当時、治療薬としてあった500円玉サイズで口の中で噛み砕いて飲むddI(ジダノシン)の飲み方が面倒な感じでした。と、いうのも食前2時間前食後2時間後の服用で、食事制限として乳製品を摂取してはいけない(胃が動いている状況で飲むと副作用が起きてしまう為)というものでした。

ある日、僕は朝食にホットケーキと牛乳を摂りました。食後2時間後にddI(ジダノシン)を服用したのですが、しばらくしてから、気持ち悪くなってしまい、吐き戻してしまい動けなくなってしまいました。この日はちょうど土曜日で午前中の授業のために学校に行っていたのですが、気持ち悪くなったのと動けなくなってしまったので、学校の近くの交差点で近くを歩いていたおばちゃんに助けてもらい、交番で救急車を呼んでもらって病院に行くことになりました。

この時の交番のおまわりさんの対応は今でも忘れませんが、HIVのことを全く知らないのと、ぞんざいな態度だったのです。この時、交番で『HIVって何ですか・・・』って言われたので、国立国際医療センター病院の診察券を出して、国立国際医療センター病院に連れて行ってもらえるようにお願いをしました。病院に着いたら、即入院ということになりました。

入院している最中にHIVの治療薬を変えてもらうお願いをしました。ですが、ddI(ジダノシン)はどうしても飲めないので、3TC(エピビル)を飲むことになったと記憶しているのですが、それでもHIV治療薬を飲むことに対しての恐怖心みたいなものがあったので、退院するころにはいったん治療を中断することになりました。

HIVの治療を中断した後、なんとA型肝炎になっていたことが判明しました。このA型肝炎は、特に治療らしい治療をしたわけではないのですが、1週間程で状態も良くなったので退院することが出来ました。

A型肝炎になっていると判明した時は、精神的にまいってしまったのは言うまでもありません。なので、『このまま死んでもいいと・・・』と思ったりもしました。しかし、A型肝炎も治ったので、薬を飲んでHIVの治療再開する気持ちになるまでは、病院に通院しながら様子を見ることになりました。

今回は長くなってしまったので、ここまでにさせてもらいたいと思います。HIVの治療再開以降の話については、次回お話させてもらいたいと思います。

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