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入り混じるような覚え

「杉内さんとこのかたでしょう」
「覚えてました?嬉しいです」

海沿いの、それも波打ち際にある建物。海があふれそうなときは、波が触ってしまうのではとも心配してしまうような場所。

以前は居住の用に供されていたが、最近の以前から、展示・インスタレーションのスペースとして活用されているらしい。

前に一度訪れたことがあるものの、記憶に残ってもらえるほどのことはしておらず、おそらく覚えていないだろうとは思っていた。

だけれども、店番(小商店の店番をする丁稚奉公の小僧を思わせる言葉だが、なんだかこれが適切な表現に思えた)をするおばあさんは、わたしを思い出してくれたようだ。

屹立といっていいような伸びた背筋と、ぎゅっとまとめられた馬の尾のような後ろ髪が、ぱっきりとした判断、てきぱきとした仕事をする姿を髣髴する。

スペースマスターの許容を理解したのか、小走りに近い速さで、展示に向かって子どもが駆け出す。

掛け軸に興味があってそれに近づくのか、得体のしれない物体を観察するという目的なのか、いずれの理由だろうか。もしくはそれすらも考えていないのかも。

展示をながめる子ども、それをながめる私。漁夫にながめられていないかを、周りを見渡し一応確認しようとする。

漁夫を目端にとらえるものの、一瞥して、まだ猶予はあることを確認する。

この建物、住むにしてはやや手狭のように感じるが、氷山の一角のように、正面からはうかがいしれないけれど、奥に母屋がつながっているのだろうか。

あるいは、このやたら天井だけ広い正方形(もっと言えば立方体で、屋根も含めると四角錐)だけしかないものの、離れとしてつかっていたのかもしれない。

「おばー。」

前にきたときは何をやっていたか、やはり仏教系の展示だったような気がする。

気づくと外にいて、展示を楽しむどころか、妄想や追想、夢想をするためだけに中に入ったようにも思えてくる。

きっと前回も同じで、何を見たかがおぼろげなのはそれが理由に違いない。

おそらく、アートや調度品ってそういうもので、モノ自体を楽しむというよりは、きっかけにして類推して活用するものなんだろう。

バイヤールもそう言っていたような気がする。たしかね。

砂浜を駆けていく子ども。中にいても外に出てもそうなのは、環境や事物が理由なのではなく、ただ駆けたかったからそうするに違いない。

まるで防空頭巾かのように肩まで覆うフードを被った娘を見て、思う。色もちょうど、小豆色をベースにしたうえで、柄が入った文様だしね。

でも、今意識できている世界線の娘なのだろうか?
でも、娘だと感じる感情はあるので、そこには違いは無いのだと思う。

また来れるだろうか。
どうだろうね。

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