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文系料理人

いきなり真逆な事を言うが、料理は理系の範疇という認識はある。

私は現在専業主婦なので毎日それなりにごはんの支度をするが、意識を持たず科学・化学領域に毎日踏み込んでいるわけだ。差し詰め台所は実験室のような場所かな。

小学生の頃、家庭科の調理実習で初めて料理をしたのは粉ふきいもだった記憶がある。洗ったじゃがいもを綺麗に剥いて、じっくり茹でて、湯切りして、熱いうちに蓋をして振ると、雪のようにふんわりとした自身の衣を纏ったじゃがいもに変身する。
変色を防ぐために水に晒すがビタミンCの流出し過ぎを防ぐために短時間にするとか、ペクチンの働きやでんぷんの仕事を利用した原理だとか、塩がでんぷんの働きを弱めるから味付けは最後にとか、習った覚えはある。習った覚えだけは。

(※余談だがヘッダの画像はじゃがバター。)

大人になり『料理は科学・化学』という言葉を聞いた時、ああ確かに調理する事で化学反応させているのだよなと納得したのだが、何故か寂しい気持ちも押し寄せてきた。
理系の科目が壊滅的にアウトだった自分に、料理をする資格があるのだろうか?もう粉ふきいもから30年以上料理しているけれど、思い返せばレシピという先人の知恵に頼りただただ経験値を重ねてきた結果出来ている行為ではないか。

確かに無意識のうちに化学反応を自分の手段に入れ、焼肉も煮魚も茶碗蒸しも美味しくいただいている。温度という概念も入れ炊飯器で鶏はむもしっとり作れるようになった。しかし原理をしっかり自分のものとしてマスターしているわけではない。こうすればこうなるの経験値の上にしか、私の結果は無いのではないか。応用が利かない。いいのか?大丈夫か?こんなふわっと料理しちゃってて。いやでもまあ、その道のプロでこれを売りにするというわけでは無いから、日々の食卓がなんとかなっていけば良いのだろうか。下手の横好きでもいいのだろうか。

料理番組で、これとこれを合わせるとこんな味になり美味しいですよ!の組み合わせが斬新であればあるほど私は警戒するが、味と味を理解した上で思いつく人が理系なのか、もちろん最初に試すことはしているだろうけれど、合わせてみようとする心意気はチャレンジ精神なのか、両方持っている人が新しい料理を作っていくタイプなのか、と料理そっちのけで考えに耽ってしまったりもする。

何度も失敗はしてきた。
経験値を重ね自分のものにする事を否定するわけではない。むしろよく頑張った。えらい。天ぷらをさっくり揚げられるようになるまで20年はかかったよね。カレーは下味と、甘みと苦味と酸味のバランスも大切だってわかったらぐっと美味しくなったよね。と自分を抱き締めたいくらい大切な経験値。でも、基本を手にしていないような土台が弱い感触はずっと拭えない。

料理への意欲は、作ることは好きだという根本にあるものと、何より自分が美味しいものを食べたいという欲望と、美味しいものを食べさせたい、美味しいって言われたいという承認欲求が、土台の周りで支えているのだろう。

美味しいものを食べさせたい気持ちで、先人の知恵が詰まったレシピ本を何冊か新米主婦の時に購入したが、読んで、食べてみたいとは思えど何から何まできっちり量ってきっちり時間を見て作るという行動までなかなか至らなかった。たまに作ってみても、なんとなくうまくいかない。もしかして料理のセンスが無いのでは?と当時の時点でうっすら思ったりもした。

レシピ本を何冊か読んだところで、これは料理の本ではあるけれど、作れば食べ物、作らなければただの読み物、と気付いた。読み物としても面白いけれど、当時は作り手に後ろめたい気持ちになっていつのまにか買わなくなった。

本という紙媒体ではなくとも、今は世の中にたくさんのレシピが溢れ、面白く紹介してくれる人もたくさんいる。時代がそういう気持ちに持って行ってくれたのか、今は読み物とする事にももう後ろめたい気持ちも無いし、なんなら割と軽い気持ちで挑戦も出来る。そして、重ねてきた経験値がそっと行程と出来上がりを手助けしてくれる。相変わらず応用は利かないけれど。

美味しいものに刺激を受けよう。
美味しいものを食べよう。
両方の美味しいところをいただこう。

先人の知恵と経験値とこの気持ちを原動力にして、楽しくレシピを眺めることもするし、時折実験に失敗したりもしながら、かつ土台の弱さも意識しながら、ま、とりあえず料理のセンスは横に置いて、化学実験も読書も楽しんでいく。化学実験の応用編は、きっと来ないと思うけれど。


#料理
#エッセイ

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