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生きているもんのつとめ

何のために生きるのか、と青臭いことを日がな一日考える。父親が死んで3か月になる。

がん死なので、家族にも心の準備はできていた。こうきたらこうでる、こんなふうになったらこうやってかわす、と想定されるパターンをいくつも頭の中で予行演習していた。でも実際に父が死ぬと、想像していた以上にショックを受け、めちゃくちゃつらかった。心はぐねぐねになり、感情を制御できない。身近な人の死別でうつになる人は1割ぐらいおられるそうで、打たれ弱さに定評のある私ならばこそ、ガックンガックンにやられてもおかしくない。

悲嘆のプロセスには、1ショック期→2喪失期→3閉じこもり期→4再生期という時期を経て、それぞれに身体的、心理的、行動的、認知的な症状が現れる、と言われる。私も、死んだ日から1週間ぐらいなんか記憶が薄い。その後しばらく、父の顔がいっときも頭から離れず、「いない。死んだ。」という事実に打ちのめされて体が粉々に爆発するような悲しみに悶えた。その次に、一日ずっと寝ていたい、泣いていたい、何もおいしくないし興味も惹かれない。誰にも会いたくない、口も聞きたくない。顔も見られたくない。仕事をやめたのをいいことに家から一歩も出ない。玄関を開け、郵便受けを見る、これが精いっぱい。このままでは自分もおかしくなる、落ちるとこまで落ちる。もういいや落ちてしまえ。だめだ、投げやりになったらおしまいだ、と思い直して、父の子として何ができるのかちょっとずつ考える。やっとこ再生期に向かってるところかな。

死んでいく父のことを忘れてはいけない、何が心残りだったのか、どうしてほしかったのか、ちゃんと覚えておかなくてはいけない。そしてちゃんと悲しみ切ってしまわなければいけない。ええ加減いい年しても父を喪うということはこんなにもガックンガックンに揺さぶられる。長々と泣き喚いてもいいじゃないか。体中痛くてもいいじゃないか。おかしな言動してもいいじゃないか。不審な行動してもいいじゃないか。斃された石仏みたいに横たわって1ミリも動かなくてもいいじゃないか。悲しいんだから。つらいんだから。もう無理なんだから。

字にしてみたらこんな気持ちにおさまりがつくかも、と最期の父のことを忘れないうちに書く。書くことが供養になっていると思う。書いているうちにいろんなことに気付く。ふーん、父はこういう人だったのか。ああ、これだったのか。うん、そうやな。そうなのかな。書いては消して、直して、読み返しては違う、こうじゃない、むしろこっちか、などといなくなった父と対話する。

死ぬ間際まで、自分の、先祖の生きざまを知ってほしいと望んでいた。私らはそれを十分に叶えてやれなかった。もっとたくさん話を聞いておくべきだった。死に際、せん妄で会話も成り立たなかった。父には言っておきたいことがあったはずだ。それをひとつひとつ思い返して、自分なりに「こういうことだったのかな」と考えて答えを探してみる。

父は歌がうまくて絵も上手で字も達筆だった。文を書くことも好きだった。スポーツもまあまあ得意だった。高校時代、全校生の前で民謡を披露してえらいウケたらしい。大学では初心者なのにバレー部に入りそこそこ活躍したらしい。らしいらしいと伝聞なので盛っているとこもあると思うけど、嗜好が自分と似すぎていてちょっとビビる。父はインフラの仕事に就いていたが、弟も道路関係、うちの子も鉄道関係に就職した。孫3人はみんなバリバリのバレー部だった。そういうとこもなんか血なんかなーと思う。

よく言う、遺されたもののなかに死んだ者は生き続けるというやつ。そういうことなのかと納得する。父の伝えたかったことは、ちゃんとヒントを私らの中に置いていってくれている。父の両親である私の祖父母、そのまた先のご先祖の伝えたかったこともちゃんと私らの中にある。でも、私はもっとそれを言語化したい。ほわんとしたものでなく、ちゃんと言葉にして具現化してみたい。返ってくることのない問いかけをしながら死んだ者たちと頭の中でやりとりをする。私なりの供養であり、生きているもののできるせめてのつとめかなと思う。