愛想笑い
いつも場馴れしていない日本語(?一応日本人だ)で話してすまない。今回も慌ただしく書いているため、誤字脱字がある可能性がある為心の広い方のみスクロールして頂きたい。
皆さんは愛想笑いをしたことがあるだろうか。おそらく多くの人が体験したことがあると思う。納得いかないことや、理解出来なかったことがあったとしても、其の場の空気を読んで、笑ってやり過ごす。
私は新しい地に足を踏み入れる時、それを繰り返し、勝手に疲れていた。勝手に笑って勝手に疲れる。なんて馬鹿馬鹿しい。
とは言ったものの、思ったことをはっきり口に出して、相手を傷つけてしまうこともある。
相手のことを理解出来なくて、それでも愛想笑いをしたくない時、私達はどうすれば良いのだろう。どうすれば、相手を理解出来ない自分を理解して貰えるのだろうか。
ここでの理解出来ない、納得出来ないこととは、他愛もない話を友人や家族などしている時、相手はそれを楽しんでいるのに自分は心の底から楽しめない、突っかかることがあるという意味としている。
例えばの話をしよう。グループで集まって会話をする際、納得がいかないと突っかかってしまう。そして、何故突っかかって来るのだろう何故今そんなことをいうのだろうという疑念を抱かれ、相手と自分との間に溝が生じてしまうことがある。相手が傷ついてしまうことさえある。
それを恐れ人は言葉にすることを、自分の正確な思いを伝えることを諦めてしまう。
人は自分思考や感情を伝えるのに非常に優れた言葉というツールがあるのに、なんとも勿体ないことだ。
結論を先に言わせてもらうが、やはり自分の思いを正確に相手に理解してもらうためには、言葉が必要なのである。
言葉がなくても伝わる。思いが分かる。そんな事はないと私は考える。例えぼ、あまり話したことは無いが目があったら微笑みかけてくれ、一緒にいたら心地の良い人が居たとする。それを相手のことを理解していると言えるのだろうか。相手のことを理解するには、相手の心の中にある言葉を本人の口から聞き、その言葉を精細に理解し、認めなければならない。言葉がなくても伝わるのは言葉を交して相手のことを正確に理解し、お互いに認めることが出来た後成り立つものだと思う。
話がズレてしまったので本題に戻そうと思う。
どうやったら、相手に自分よ本心を正確に相手に伝えられるだろうか。ここでは、言葉のニュアンスがとても大切になっていく。
例を言えば、そうか?そうかな?という言葉。怒りの感情のイメージが低く、軽いニュアンスで話したい時とても有効である。しかしこの言葉も、タイミングを間違えると重たいニュアンスに聞こえてしまう時がある。
だからそうならないために、言葉に「軽さ」を持たせることが大切になるのだ。相手の話を止めるには、「それはそうかもだけどちょっと不満だぞ」くらいのニュアンスがいい。そこから自分の言いたいことを少しずつ言葉にするのだ。自分の気持ちを、正確なニュアンスで。人にわざわざこんな事をしなければならないことこそ馬鹿馬鹿しいじゃないかと思う方もいるかもしれない。しかし、これは相手に自分のことを知ってもらう大切な作業である。それをして初めて、相手は自分のことを理解してくれる存在か否か知ることが出来るのだ。自分を伝えることは、相手を知ることでもある。貴方のことを知って、理解して喜んでくれる、納得してくれる人こそが、真に貴方を大切に思っている存在なのではないだろうか。
長々と話してしまったが、要は自分の中にある言葉を精密に言語化出来るかが大切なのである。そのスキルはいつの時代でも必要とされる、最重要科目だろう。
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