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陰でも、陽でも。【表はお金の世界、裏は占い師】story1胃に穴があきそう

このエッセイと私について

私の本業はお金の世界(証券専門職)だ。

もともと新卒で証券会社に入社し、秘書職であったもののじっとしていられず、1年もたずして営業最前線へ。いきなり個人宅をピンポーン!とまわる怒涛の飛び込み営業の毎日。そんな中、ひょんなことから大きな神社仏閣の資産運用担当となり(いきなり飛び込んだ)、スピリチュアルな世界へいざなわれる。

そのご縁から日本が明治時代以前に使用していた吉凶日が書かれたカレンダー、旧暦の魅力にどっぷりハマり、またまたひょんな出会いから占いを始めたのが約10年前。

あれから10年…相も変わらず、毎日暦を読んでいます。(そしてお金の世界でも生きております)コロナ禍に私に何かできないか‥と大それたことを考え、裏側であった占いや暦をInstagramで発信しはじめ、YouTubeもノリノリで配信しています。そんな私が表はお金の世界、そして実は占い師として、日々考えている表と裏、陰と陽について。

このエッセイは、塩を玄関に置いたら開運!とか、トイレを掃除して!とか黄色が・・・!というすぐに開運に結びつくような蘊蓄は残念ながら書いておりません。

私のYouTubeやInstagramでもご指摘が多い通り、私は“余談”ばかりの占い師でありまして読んだら少し、気持ちが楽になり、楽しくなり、日々の暮らしの中にちょっとしたほころびのような、糸口が見つかる…かもしれない‥そんなものを目指しています。

どうぞのんびりした気持ちで、お読みいただけたら幸いです。

story1 胃に穴があきそう


私の仕事は、その8割、9割がお悩み相談の受付である。これはお金の世界で営業職だったときも、占い師のときもだ。

時に人は誰でも、自分だけでは解決しきれないお悩みのゾーンに迷い込む。それを友人や家族などの親しい人ではない、ただ他人ではない“誰か”に話したくなり、聞いてほしくなる。

そんなとき営業担当者というものや占い師はその聞き手に適任なのだろう。営業職に?と思われるかもしれないが、お金の世界で担当者というのは実は物を売っているより、お悩みを聞いている時間のほうが圧倒的に多い、これは業界あるあるだと思う。

占い師もそれが生業というくらい、占う時間より、お悩みを聞いている時間のほうが長い。ただ私は悩み相談の受付はしても、あくまでもまずは受付係であることに重きをおいている。

そこにはこんな余談がある。

それは会社員だったときの話。営業職だった私は、ある大きな仕事のプレッシャーで胃に穴があきそうになったことがある。お医者様に「もうすぐ胃に穴があく」と言われ、もうすぐって何?と思いながら、精神的にも、“このままではよくない…”とまいってしまいそうで実家に帰った。

そういえばものすごく疲れていた、そういえばあれがよくなかったのかもしれないと、過去の出来事をひとつずつひっぱりだし荷物として背負うように、重くなった心と体を持ちかえった。

なんとなくピンとはりつめていた糸がプツンときれるか否かの寸前で、その晩、食卓についた。そのときは両親と一緒に食事をしたほうがいいと思っていて実家に戻っていた。そこでふと父に「私、胃に穴があく寸前かも」とほぼ涙目で、打ち明けた。

そうしたらだ。父は軽やかに一言。

「お~、社会人になったなー!乾杯!」

ビールグラスを高々にかかげ、グビっと飲んだ。胃に穴があく前に、目が点になった瞬間であった。ここで言いたいのは、父から愛されていなかった・・とかブラックな会社で散々だったとか、ということではないのでまず先に一言。

父からかなーり予想外の一言をもらった私の内心は「え、胃に穴があくことは、大したことではないの?」と、結構重要な異常だったのにもかかわらず、ポカンとした。

でも、胃に穴があきそうという私にとって大問題になりかけていたものが、“もしかしたら、大したことないのかもしれない”に置き換わったことによりどんよりした気持ちが一気に軽くなったのである。

その後、何にもそれに対して聞いてこない父とそれなりにニコニコしながら笑顔で聞いてくれた母がいつものようにそこにいた。私の胃に穴が開きそうでも、世界はずっとこのままで変わらないんだと未来を感じられた。

その日、よくないことを承知で久しぶりに揚げ物をおいしく食べることができた。そのサックサクの揚げたて軽い美味しさが、数分前まで自分にとって大きく重い悩みに勝った瞬間であった。

この経験から私は、今でもほとんどのことが大したことではないんじゃないか?とまず感じられるようになった。

今の流れというか、社会は、そこに寄り添い個人のことを大切にする風潮がある。その人の「いま」の気持ちを尊重しなさいと。過去そのときどうだったという事実以上に、今その人が感じている気持ちのほうに重きをおく。

でも過去の事実は何らかわらなくとも、その後の気持ちなんて不可抗力次第でどんどんカタチが変わる。特に今はリアルな友人や家族からの一言だけではなく、SNSやネットの“評価”によって気持ちはいかようにも変化する。

誰かがかわいそうとラベルを貼ればそう感じてものすごく落ち込むし、ひどい!といえば、世の中のすべてが悪に感じてくる。

あの時もし、父が「大丈夫か、それは大問題だ!すぐに休みなさい。」ともし【重大】ラベルを貼っていたら、きっと私はご多聞にもれず落ち込んだであろう。そして会社は休ませてくれたと思う。

そうしてぽっかり空いた時間と、心に真っ向から向き合い悩み、情報を丸の飲みし、何も食べられなくなり、結局胃に穴があいたとも思う。自分のこれまでの行動や選択、性格、社会、ありとあらゆることをネガティブ判定して。

でもそうではなかった、ま、そんなこともあるのかくらいになった私の胃に穴があくかどうか、は穴はあかずに、そんなこともあるというただのひとつの通過点として忙しく通り過ぎ、いまではこのように大切なネタになり、変わらず揚げ物が大好きなのである。

もうすぐ胃に穴が開きそう、だったという事実は何らかわっていない。でもそのことを大問題にせず、そのままになんの【重大】ラベルも貼られずに放っておくことができたことで私の人生は軽やかにすすんだ。父と母、そして大きなチャレンジを最後まで任せてくれた会社に大きな感謝をしている。

物事を【重大問題】と判定しない、これが私のルールだ

だから私は、悩み相談をまず受付係として聞くことにしている。そしてそれをその人の“問題”とすぐには捉えず、感情ラベルも重大ラベル貼らない。なるほど、と聞くに徹して、占う。そうすると、ただ単にそういう時期だということなんだなぁというときもある。そしてそれが永遠に続くことではないこともわかる。

どなたの運勢をみてみても今世、すてきなものやことに出会え、夢中になれる道がある。もっと広げてほしい可能性が無限大にある。だから、私はそちらの話をする。

もちろん、心にひっかかるトラウマ的なものや、もうここまで向き合ってきた時間や性格もあるだろう。たしかに向き合って解決できることもある。

ただ向き合っても、向き合っても、ぐるぐる迷子になるかたも少なくない。

今までもそんなかたに遭遇してきた。そんな方たちに別にそれを忘れても、無理に向き合わって出口を探さなくてもいいのですよとお伝えすると、「え・・・」と視界が開け、ものすごく軽くなって本当にスキップして帰った人もいるのである。

傷口は意外とそのままに、放っておくほうが意外と自然に治ってしまうこともある。そちらの傷口のほうをえぐり、塩を塗りたくってはいないだろうか。傷が気になるのはわかる、そして100%忘れるなんてできないこともわかる。

だからたまーに触っちゃうけれど、ほとんどは忘れちゃうくらいで、頑張ってかさぶたまでもっていってほしい。

そのために、今日はまずはシンプルに好きなもの、食べたいものを食べてみてほしいと思うのだ。

おいしいと感じている時間が多くなればなるほど、気にならなくなる。そしてそのうち、元の気にもどる。これが“元気”ということだ。


story2 なにかのせいにする


私はこれまでずっと何かネガティブなことが発生したらすぐに、「なにかのせいにしてね」ということを推奨してきた。

こういうと、「なにかのせいにするなんていけないことだ!」という【自己責任】プラカードを掲げる人の反発がでてくるのかもしれない。

私たちは子どものころから「なにかのせいにする」ことはいけないことだと教え込まれてきた。かと思えば、いい歳した大人が責任を擦り付けたりして、なんだかよくわらない世の中でもある。

ただ、ちょっと世界を広げて考えてみてほしい。

英語では予想外の出来事が起きた時に「オーマイゴッド!」と叫ぶ。これは文字通り「あーー!私の神よ!」というような意味だが、これはいいときばかりにでてくる言葉ではない。ちょっとネガティブな出来事に遭遇したときにも叫ばれる。

例えば、乗りたかった電車に乗り遅れて行ってしまったとき…
「オーマイゴッド!」

キッチンで卵をおとしたとき…
「オーマイゴッド、、」私の神様なんでyo・・・!という瞬間だ。

それはそれは大きな声で、なんども繰り返されるときもある。大きなリアクションとともに。(ショート動画とかにもたまに出てくるオーマイゴッド)

これを見ていて感じないだろうか?

何かのせいにしては、誰かのせいにしてはいけないと習ってきた私たちには驚愕の事実だが、「オーマイゴッド!」と神様のせいにしているじゃないか・・・!衝撃。

これが何かのせいにできない私たちは、常に自分のせいにして、責めてきた。大人になればなるほど。

・自分がもっと早く準備をしておけばよかったんだ‥
・もっと慎重にすればよかった‥

すべての責任を丸被りして、自分のせいにする。根が真面目で優しい人ほどそうだ。

でも私たちはこの世の出来事すべてをコントロールできるはずもなく、支度して出ようと思ったら大雨が降ってきてしまい、予想外に時間がかかったり、地球には引力があるから物は落ちる。

ただこれをやっぱり誰かのせいにするとモヤモヤやバトルが生まれたりするのであまりおすすめしない。

かといって、いきなり“オーマイゴッド!”と言ってみても「・・・どうした?」と反応されるか無視されるだけ、何にもならない。

でもこの世の中のことは
“オーマイゴッド!”に変わるような、誰も傷つかない、何かのせいにしてもいいと気づいてほしいのだ。

ずっと私は「こよみのせいにしてみて」とお伝えてしている。たとえば失敗ばかり重なる日(こういう日ってある、朝から冷蔵庫の牛乳倒して、台所で塩まいて、携帯の充電器が一向にみつからないとか)に「今日はそういう日だ」とひとまとめにして、もっていってもらうことにしている。すると、イライラが半減してなんとなくその場にちょっと落ち着きがうまれる。

というのもこよみにはそういううまくいかないかもしれない日が記載されているのだ。

一粒万倍日や天赦日に代表されるいわゆる吉日、陽の日は有名になった。が、こよみにはいいことばかりではなく、吉日の反対にお休みをしたり、無理をしないでという陰の日というのがあるのである。これが非常に頼りがいがある。

例えば土用という季節の考え方がある。夏土用にうなぎを食べることで認知されている日だが、これは各春夏秋冬の季節の間に、約18日間、年4回もある。

このときは神様がゆっくり季節を次の季節に動かしてくれる日々なので私たちは大きな変化を起こさず、ただ自然の流れにのるほうがいいとされている。

昔は(いまでも農家さんでは意識されている方が多いが)この土用には、畑を大きく動かすことや工事は控えて、無理をせず休みをとった。ちょうど暦上では一つの季節が終わり、土用があり、新しい季節に向かうという流れになっている。土用は前の季節でたまった疲れや邪気をリセットする調整のとき。季節の変わり目は体調を崩しやすいというのは、この土用の理論からでもある。

だからこの時期。やる気がでないのも、体調がぐずぐずするのも、あなたのせいではない。特に子どもはこの季節を敏感にキャッチしているもので、わが娘も土用に風邪をひきやすい。

やる気のないのは、土用のせい。モヤモヤするのも土用のせい。イライラするのもそう。全部暦が教えてくれる。だから無理してはいけない。こう考えると休みもとりやすくなる。

このほかにも、ものごとが滞りやすい不成就日が月に4回程度、あちこちの気がふさがり気分が落ちる10日間十方暮れが2か月にいっぺんなど、こよみにはこよみのせいにできる日がそれはたくさん盛り込まれている。

暦を知るとものすごく楽になる。一旦、どこかに気持ちを置ける場所があるというのはいいリセットになる。

これらのこよみすべてを知らなくても、なにか「あーーーーーーー。。。」ということが起こった時、それが陰の日だとわかれば、もう儲けものです。やっぱり!こよみがそうだもの、こよみのせいね、楽になる。

そうすることで次のことをフラットに考えられるから気が楽になるのだ。鋭利な気で自分を傷つけ落ち込むこともないし、優しくなる。

何かのせいにする、すべてのことは到底自分だけでは背負い込めないはず。もっと頼っていい、休んでいい。

今では、暦をみて陰であると二ヒヒ・・となる。そんな日は片付かない家を見ても自分を責めず、暦のせいにすべてのやる気のなさを押し付けて、いそいそと外食に出かけるのだ。今日は陰のこよみだからね~、って言いながらおいしいものを食せば、みんなきっとまあるく収まる。

story3 思い通りにいくことなんて1つもないわ


占い師をしていると、「じゃあ、自分の人生はすべて思い通りですね!」なんて言われる。そんなわけないだろう。(お金の世界でも「お金についてわかるからお金持ちですね!」と言われるが、そんなわけない。そして、私はお買い物大好きファイナンシャルプランナーで有名である)

当たり前のことだが、人類みな1秒先のことでさえ誰にもわからないのだ。

現に株価が急落や急高するときなんて、その1秒前までそんなことはわからずにだいたいのんびり株価をみている。「あー、買っておけばよかった‥」なんて一度や二度ではない。(逆もしかり)

そう、この世の中、自分の思い通りにいくことなんて一つもないのだ。こう書くと、ただネガティブで根暗な人と思われるかもしれないがそうではない。現代に生きる私たちは大きな勘違いをしてしまうことがあると思っているのだ。

朝、アレクサが起きる時間になれば自動的に起こしてくれる。Instagramを見れば「あなたこれ好きでしょう?」という憶測に溢れ、行先は乗り継ぎ案内を見て、きょろきょろしなくても数分狂わず目的地に到着できる。

空を見上げなくても、新月の時間がわかり、蝕がいつどこで起こるかGoogleが教えてくれる。風を匂いを感じなくても、明日の天気はネットで見ればわかる。(降水確率50%って、降るか降らないかフィフティー・フィフティーですっていうの、いつも謎ではあるものの)

情報が先にあり、そのあとに事実がついてくると勘違いしてしまう。体で自然を感じて、次を察する必要がなくなった。自然ありきではなく、情報ありきの世界だと思い違う。

でもこれらは本来、当たり前だが自然が先なのだ。

暦は情報がなかった時代に、自然をデータにとり統計学として記したものだ。生き延びるために発明された人類最大の叡智と言われる。自然の流れを読み、規則性を見つけ、いつ田畑を耕し、種をまけば、豊かに実るかそんな願いと祈りが込められたものだ。

太陽をみて、日を測り、草花の様子から季節を感じ、星月をみて陰陽を読み解く。暦の語源は日を読む(かよみ)から成り立つ。

ただ暦があっても、すべてのことに若干の狂い、すべての物事は“わからないもの”だった昔は、月蝕がみられるとこの世の終わりを嘆き、神に祈った。自然にはかなわないと大いなる敬意を表していた。

デジタル社会で、1秒たりとも狂わない時代に生きる私たちは、そんなことを忘れ勘違いしてしまうときがある。

映像を2倍速で見られるようになり時をコントロールできていると勘違いする。私たちの生きる時間のスピードは1秒単位でも早めることも遅らせることもできないのに。

天気予報でいつ雨が降るかわかっても、今後雨の日がまるで1日もない世界になってしまえば生きていけないのに。

スマホで時間がわかっても、太陽がなくなれば、光もないし、月がなければ夜がない。自然のことはコントロールできない。

結局、私たちの思い通りになんてできることは、ひとつもないのだ。

もちろん進化は素晴らしい。情報が事前にわかることで備えることもできるようになった。何も私は現代のあれこれを否定し、昔のほうがよかったと考えるたちではない。(現にネットがなければ私の仕事は成り立たないし、YouTube大好き)

ただ、結局は私たちの思い通りになることなんてひとつもない、そう考えると、今日ひとつでも自分の思う通りにことが進んだらそれが喜びにつながりはしないだろうか。

生きているうちに、望んでいたことが叶えば、ありがたく、幸せに感じるのではないだろうか。

上手くいきません、願いがかないません、思い通りにいきません。そりゃそうでしょう。

じゃあそんな中で、そんな思い通りになんていかないと思う人生でなぜ経済を予想したり、占ったりするのか!といわれたら、思い通りにいくことなんてないからこそ、可能性にあふれていることを感じているからだ。

思い通りにいかないということは、予想もしない出来事が起こるということでもある。

ここ数年のコロナ禍も、どんな腕のいい経済学者も占い師もピタとすべてをあてることは、もちろんできず予想もできなかった世界が展開された。だいぶ斜め上からのシナリオだった。

それにより、私たちは生き方も考え方も変わったと思う。窮屈だった世界で、私は心底この世の中はわからんな~と無限の可能性を感じた。

つまりすべてが思い通りであるのであれば、自分の想像の範囲からそれることもなく、道が見え、決まってしまうということだ。

それってものすごくつまらないじゃないか。決まった道を歩くだけ。失敗もない。思った通りであれば。

もしかしたらこういう風になるのかもしれない、でももしかしたらこうにもなるかもしれない…という未来の風呂敷は誰でも広げ放題だ。

制限がない。そしてそれを遥か上を越えてくる展開もある。だから楽しい。

思い通りになんていくことない人生ってそれだけで可能性に満ち満ちていて、最高なんだ、と考えているのだ。

そう考えると未来の不安だって、考えても仕方ないか、と思えたりもする。失敗だっていいのだ。この先何が起こるかなんて誰にもわからず、可能性は無限大。風呂敷広げるスペースをごく限られたところに限定させ、小さくなってしまうのはもったいない。

未来を想像する自由がある。

明日のことなんて誰にも分らない。
あのずっとほしいなぁと思っているシャネルのサングラスを誰かから突然プレゼントされる!なんてことだって可能性はゼロではない。そう考えてウキウキだってできるのである。(だってゼロではないでしょう?)

story4 陰でも陽でも


今回書いたこれまでの3つのストーリーのタイトルをみると

・胃に穴があく
・なにかのせいにする
・思い通りになることなんてひとつもないわ


というのはすべてものすごく暗いタイトルのように感じるでしょう。ただそうではないことをここまでお読みいただいたみなさまはわかっていると思います。これが陰と陽。

東洋の占いの世界では物事を陰と陽の2つに分けて考える陰陽論というのが基礎。そしてこの陰と陽は対になっていて、陰極まると陽に転じ、陽が極まると陰に転じる、そういう流れにある。そして物事はどんなことにも陰陽という二面性があるということ。

運がいいなぁと思うお客様は、このことを心のどこかで常に感じていらっしゃる方だと思う。

誰しもあのことがなければ今の仕事がない、あの人との出会いはない、などよくよく思い返せばみんなそれぞれそんな陰の局面にいたからこそつながったご縁がひとつやふたつではないだろう。運がいいかたは、陰のときを大切にされる。

陰でも陽でも、どちらでもとそのときどきに気づきがあり、学びがあり、それが人生だと考えている。

もちろんそのどん底のときは、そんなこと思えない。でももしかしたらそうかもよ?という陽への兆しが耳に入れば、数パーセントの望みを持ち立ち上がれるのではないかと思っている。

私はどん底から這い上がり、今では「運がよかった」と言っている人たちを何人もみてきた。

そして最後の最後にまた余談です。

金融の営業担当者だった時、3億円分の株式を保有されているお客さまがいらっしゃいました。株式は現金化しなければ使うことができず、毎日株価は変わる。つまり合計が3億を大きく超える日もあれば、下回る日もある。

私が担当者になる前からその方はどこにも出かけず、毎日午前と午後その日の株価を毎日チェックすることで暮らし、何も生活を変えていませんでした。3億をいつお使いになるのかな・・当時20代、物欲の塊だった私からすると3億あってもその資産の増減を毎日心配するだけの人生なんて…と思っていましたが、今はそんなこと思いません。

幸か不幸か。
これもひとつの陰陽の対。

そしてその本人が幸せか否かというのは、他人には決められるものでは決してありません。これに関しては神様だって介在できない。

どこに、いつ、だれの元にどう生まれ、どこでどう終わるのか自分では決められない。ただそこまでの間、長ければ約100年近く、私たちはずっと自由を許されている。

その人の心のうちだけに感じ取れるもの。どんなことでも、どんなときでも幸か不幸か、陰でも陽でも、どう感じるのかは結局自分次第。

毎日生きていればいろんなことに遭遇します。そして私は今日もお悩みを受付しています。どんなことでも、陰でも陽でも。

最後に

最後までお読みいただきありがとうございます。今年に入って、コロナが少しずつ終焉に向かい、私の「鬱々としている世の中に楽しみを生み出したい」という勝手な目標もうっすらと薄れてきました。

もともと書くことが好き、話すことが好きで、2020年静かさが重んじられる世界で、これまたひっそりと0からスタートしたインスタもYouTubeも合わせると1万人を超えるみなさまにご覧いただけるようになりました。

フォロワーさん数名のときからずっと応援してくださっているかたも、コロナ禍ということもありほぼみなさまに直接お会いしたことはないのですが、心の友のように感じるご縁をいただいてるかたも。本当に感謝しています。

そして私は、また次の世界。今度は大好きな本という世界の中で生き続けたいとまたまた無謀な夢を企てました。本というのは不思議で、どこにもつながっていません。広がりません。ただつながるのはそこにある言葉、広げるのは自分自身。

無限に情報が溢れるネットの世界とは違い倍速もできず、書かれたこと以上のことを知ることはできません。

でもだからこそ、本がいいのです。ここ最近、よく「自分のペースがわかりません」、「自分のすき、がわかりません」というご相談をたびたび受けます。

そういうかたは、本とつながってほしいと思います。最初は間がもたないかもしれません。でもそれが本当はあなたのペースであり、その無の状態に感じることで好きか嫌いかわかってくるのだと思うのです。

効率化のはずなのに、自由が生まれず、長寿化のはずなのに悲観しかない世の中で、自分のペースですすめていくことの重要さをひしひしと感じています。

だから私は本が好き。たくさんの本とつながり、助けてもらい、自分のペースを保っています。そして本好きというのは自然にまたどこかでつながる。(本屋さんにいくと勝手にみんな友達と思うタイプ)今度は、私の本でまたみんなとつながってみたいと思うのです。

noteの創作大賞のエッセイ部門にエントリーします。ぜひみなさまの応援をいただき出版を目指したいのです。(いつもいろんな局面で応援をいただいてばかりの占い師ですが‥)

私は職業、文筆家になりたい。一生こよみをみて、書いていきたい。80歳までみんなと本でつながりたい。

最後までお読みいただき、このエッセイがいいな、また続きが読みたいなという方は、ぜひいいね、やコメント、シェアなどいただけたら本当に嬉しいです。

応援どうぞよろしくお願いいたします!




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