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夢のなかで、魔法をかけて

12月11日、羊文学「まほうがつかえる 2022」東京公演を観に行った。

好きな音楽や作品やキャラクターについて、歌詞やストーリーや性格といった、それ自体が持つ要素や性質を好きだというのはもちろんあるのだけど、自分にとって特に思い入れの強いコンテンツを想起してみるとそういう表面的(マイナスな意味ではない)な部分よりもむしろメタ的な意味とか自分の人生の中での位置付けだとかを含めて好きだと表明している節があるように思う。

そういう側面から私にとって「羊文学」というバンドがどういった意味を持つ存在なのかを語るのはむずかしい。ぼんやりとしたつらさや忘れたくない煌めきや、胸を裂くような青さやとりとめもない日々をすべて淡く光る結晶にかえて、それを時にわたしの眼前に差し出し、時に傍に置いて静かにそばにいてくれるような存在とか、そういう……。

「1999」がYouTubeのおすすめに出てきて、そこからサブスク上の全曲を聴いていて、明確に「刺さった」と感じたのは「若者たち」を聴いたときだったはずだ。トイレの個室で過呼吸になっている最中、うれしいことがあった日の帰りの電車、緊張してなんだか落ち着かない時、特になんでもない日の午後、「いま、この瞬間、聴くべきだ」という衝動に駆られて、たくさんの時間を共に過ごした、高校1年生の当時から今までずっと変わらないわたしの人生のアンセム。

自分以外の人間の善性を信じている、というか「善性の存在を信じることが正しいとされる価値観」を信じて生きている。そういう面から『人間失格』の葉蔵がヨシ子に向ける感情や『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンのことがとても大事でいるのだけど、羊文学や塩塚モエカのことを好きで大事でいるのも、私の中の同じような部分なのだろうなと思う。

この日の昼間、同じく羊文学を好きなサークルの先輩と散歩する中で、塩塚モエカと音楽とか関係ないどうでもいい話がしたい、宇宙とか道端の花とか、そういう他愛ないものについて話をしてみたい、という話になった。これはきっと羊文学を塩塚モエカを好きでいるうちのいくらかのひとたちに共通する想いで、だからわたしは羊文学を好きだと表明する人にある種の信頼とでもいえるような感覚を抱くのかもしれない。

一緒にライブに行ったのは私と同じく羊文学に、そして「若者たち」に支えられて生きている、高校時代の友人だった。しょうじき友人というカテゴリに入れておくのも申し訳ないくらいなのだけど、親友だというのが気恥ずかしいので友人とさせてほしい。
その人もまたわたしの人生において幾度となくわたしを救いあげてきてくれたひとで、同時に苦しみの一部をつねに共有して生きていて、私にとっての羊文学や高校生活や人生のそれぞれと不可分な、あまりにも大きな存在で。だからこの人と羊文学のライブを観に行くということ自体が、わたしにとってはとても意味のあることだった。

唐突に話を進めるけれど、今回のライブで「これを生で聴くまでは死ねない」をいくつも消化させてもらえたなという感覚がある。落選したLIQUIDROOMのセトリを見て奥歯噛み締めた身としても雪辱果たした感があった(「奥歯噛」の部分密度がすごい)。

今まで、あまりライブを観て泣くという感覚がわかっていなかった。
昨年10月末に開催された「にじさんじ」1期生全員による初の3Dライブ「initial step in nijisanji」では8人が登場した瞬間に泣いてしまったのだけど、それはどちらかというと鈴谷アキくんの3D初お披露目とか、最初期から変わらない8人で大舞台でライブができたことだとか、文脈を前提とした感情の高まりだった気がする。

のだけれどそういう過去を全て覆して、「おまじない」「花びら」で焦るほど号泣してしまった。さすがに演出が良すぎた(ソーダ水、ワンダーも)。
今までに何度も聴いてきた曲たちだし、そして正直「POWERS」リリース当時からこの日までこの曲にそこまで大きな思い入れはなかった。のだけどあの日あの時間、2階席から見渡したホールの光景が、演奏と歌声と歌詞が響いてきて、涙が溢れてきた、それは隣にいた友人と自分との関係性が意識されたからというのもあるかもしれない。


この日の私はあろうことか1時間睡眠でこのライブに臨んでおり、体力の限界による眠気で第2部はかなり意識が朦朧としていた。でもぼやけた視界、あやふやな思考、でかい音、明滅する光がなんだか心地よくて、あれはあれで良かったようにも思える。けれどさすがに次回があれば十分な睡眠を取ってからにしようとは思う。

序盤に羊文学というバンドについて「静かにそばにいてくれる」と表現したが、実際の彼女たち(というか塩塚モエカと河西ゆりか)は明るくほがらかで、ほわほわして騒がしい。本人たちもMCの時の滑舌がやばい、みたいに言っていたけどあのどうにも気の抜ける、お昼ごはん食べながらおしゃべりしてるみたいなMCが心地よかった。

記憶がすでに曖昧なのだけど途中「このライブを1年の棚卸しに(総決算的な意味合い?)」みたいなことを言っていて、それがなぜだかとても泣けた。
自分のしんどさやそれによってあらわれた症状を周囲と比較しては大したことないと退けて見ないようにしてきた日々で、とくにこの1年は沢山のありがたいことうれしかったことと一緒に、というかむしろそれより重めにのしかかってきていた不定形なしんどさみたいなものから逃れられずにいた。
のだけどちょうど最近それが密度を小さくしはじめたというのもあって、蓄積し続ける記憶の砂に既に埋まりはじめつつある今日までの最悪なつらさも後ろめたさも全部清算していいよ、と言ってもらえたような気がしたのかもしれない。

ライブの最後にみなさんの明日からの毎日が幸せでありますようにみたいな、全然違うかもしれないがまあ大まかな意味としてはそんなような言葉をもらって、音楽もそうだけれど最後に特大の魔法を放たれてしまったな、とぼんやりしながら席を立った。

中野サンプラザを出ると、開演前に降っていた小雨は止んでいた。寒さをかこちつつ駅へと向かう、電車の中でまどろむ、家まで自転車を駆るその間ずっと、余韻に浸るというよりむしろ心の輪郭をぼかされたような心地でいた。
いかんせん燃費が悪いもので、この日もらった救いで為せる延命には限りがあるだろうけれど。それでもそのキャンドルの火みたいなやさしいゆるしは、私の人生の前方しばらくを照らす明かりになるのだろうな。

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